そして、フェリクスの後任としてフェストゥスがやってきた。前任者と対照的に、フェストゥスは迅速にこの事案に対応する。エルサレムにのぼったフェストゥスに対し、「祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々」(25:2-3)は、パウロの罪をさかんに言い立て、パウロをエルサレムへ戻すように願い出る。彼らには護送の途中でパウロを暗殺する計画があった。
フェストゥスとしては、自らの責任範囲で行われている裁判を、正当な理由無しにユダヤ人のもとに預けるようなことはできなかった。しかしフェストゥスは「ユダヤ人に気に入られようとして」(25:9)、エルサレムで裁判を受けたいかどうかパウロに尋ねた。するとパウロは、ローマ皇帝への上訴を願い出たのである。フェストゥスは協議の後、それを許可することにした。
それでもフェストゥスの悩みは終わらなかった。パウロをローマへ護送し、皇帝のもとで裁判を受けさせることにしたからには、フェストゥスは皇帝にその理由を説明しなければならなかった(25:26−27)。しかし、フェストゥスにはこの裁判の争点がいまひとつ理解できないままでいたのである。
その時、幸運にもフェストゥスのもとに訪問者が与えられた。それが「アグリッパ王とベルニケ」(25:13)である。アグリッパ(2世)はユダヤ地方の領主であり、ユダヤ教徒であった。ベルニケはアグリッパの妹であり、様々な男女関係のエピソードで知られている。フェストゥスは、きっとこのユダヤ教徒であるアグリッパなら、この裁判の争点を理解するだろうと思い、翌日、パウロをアグリッパの前に引き出し、弁明させる機会を作った。
パウロはアグリッパの前で、自らの立場や歩み、回心のできごとや信ずるところを語る。読者は既に「使徒言行録」において同じようにパウロが弁明する場面を読んでいるが、著者はこの26章の場面をパウロの証しのクライマックスとして印象的に描いている。新しい表現として「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(26:14)とあるが、これはギリシャの慣用句のようなもので、当時牛追いをする際にとげの付いた器具を用いたところから来ていると言われる。パウロはここで、どんなに抗おうとしても自分を証し人として立て続ける主イエス・キリストの計り知れない力を表現しようとする。
続けて学んできたように、パウロはユダヤ人と異邦人を同等に扱い、すべての人が神の救いに招かれていることを語ったがゆえに、ユダヤ人の怒りを買った。しかしパウロは「預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません」(26:22)と弁明する。そしてパウロが旧約聖書から受け取ったメッセージは、「メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる」(26:23)というものであった。パウロはモーセや預言者たちの教えと、主イエス・キリストの出来事を別物とはせず、むしろそれが指し示されたものであると理解するのである。
ローマの高官として当時の高度な教育を受けたフェストゥスにとって、「復活」「幻」といった理性を超えた事柄を真面目に聴くことはこれ以上我慢ならなかった。フェストゥスは「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」(26:24)と大声で叫んでパウロの話を遮るしかなかった。しかしパウロはなおもアグリッパに語る。「このことは、どこかの片隅で起こったのではありません」(26:26)。主イエス・キリストの復活の出来事は、時代や地域、民族を越え、あらゆる人にとって決定的な出来事として起こったのである。更にパウロはアグリッパに問う。「預言者たちを信じておられますか」(26:27)。アグリッパは答えに窮してしまった。「預言者たちを信じていない」と言ってしまったら、彼はユダヤ教徒として危うい立場に立たされる。しかし、「信じている」と言ってしまったら、パウロに「それでは預言者たちが指し示した主イエス・キリストを信じるのですね」と説得させられてしまう。アグリッパは「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」(26:28)と冗談めかしてパウロの問いを軽くかわすしかなかった。
この謁見が終了し、フェストゥスやアグリッパは口々に「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」(26:31)と言い合い、ローマ皇帝に上訴さえしていなければ穏便に済ませることもできたはずなのに、とパウロの「失敗」に呆れた。しかし、彼らにとって「失敗」に見えるローマ行きも、パウロにとっては神の御心である。パウロは「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(23:11)という主の示しを頂いていたからである。
この後、「使徒言行録」の著者は、パウロのローマでの出来事についてそれほど詳細に記さない。パウロの死に関しても言及しない。「使徒言行録」の主役はパウロでも他の誰でもなく、主イエス・キリストであり、キリストの霊としての聖霊である。パウロは、どこまでも主イエス・キリストの「奉仕者、また証人」(26:16)だったのである。