一行はシチリア島のシラクサを経由してイタリア半島の先端にあるレギオンへ渡った。そしてイタリア最大の港町であったプテオリに到着した(28:13)。パウロらは現地のキリスト者の出迎えを受け、7日間滞在した。恐らく、彼らと共に主の日の礼拝を守ったのであろう。「こうして、わたしたちはローマに着いた」(28:14)という表現から、紆余曲折の末にいよいよ到着したのだという感激が伺える。
ローマからもキリスト者がパウロたちを出迎えに訪れ、彼らは徒歩でアッピア街道をのぼり、いよいよローマに到着した。「パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた」(28:15)。「皇帝に上訴をする」目的で「未決囚」という立場で行くことになった形ではあるが、とにかくローマへ行くことはパウロの悲願であった。パウロはローマの教会のキリスト者たちと出会うこと、彼らと信仰の交わりをし励ましあうことを願っていた。それゆえにパウロの喜びと感動は非常に大きかったのである。そしてパウロはローマの教会から送り出されて更に西方に伝道に出かけたいと願っていた。パウロにとって、常に伝道は個人のわざではなかった。パウロの伝道は常に「教会から送り出される伝道」であり、それは常に「教会の伝道のわざ」であった。
パウロはローマにおいて「番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された」(28:16)。つまり、「軟禁状態」におかれたのである。軟禁状態におかれた者は、外出できず、人が外から訪ねてくることは可能であるが、ある程度監視の目が光っていた。一見穏やかに見える状態ではあるが、時の権力者の意向により、いつ処刑されるか分からない立場である。このように、パウロは常に死と隣り合わせといえる状況におかれた。そしてその中で変わらず熱心に伝道し続けた。
さてパウロは自宅に「おもだったユダヤ人たち」を招き、まず自らの立場と置かれた状況について弁明した(28:17−20)。パウロは様々な土地に伝道に出かけると、まずその土地のユダヤ人会同でユダヤ人に伝道した。聖書の内容や背景を理解しているユダヤ人に、まず「預言者の預言の成就」であるキリストを宣べ伝えたのである。
ローマのユダヤ人たちは、パウロに関する不都合な情報は特に得ていないが、「分派」に対する反対の声が挙がっているのは耳にしていた。この分派とは、イエスをキリストと信じる者たちのことであり、、当時それはまだユダヤ教の枠内のグループとして把握されていた。 そしてローマのユダヤ人たちは、パウロの考えを直接聞きたいと願った(28:22)。
そこで、「ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである」(28:23)。もはやパウロは自己弁明ではなく、神の国について証しすることを目的としている。我々の伝道の内容も、いわば「神の国」「神の支配」に関する証しである。神がイエス・キリストによって我々の罪を赦し、御手の中に捉えて下さったという福音、そのような神の国は既に我々の中に始まっており、それは終わりの日に完成するという約束について、我々は証しするのである。
ユダヤ人の中の「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった」(28:24)。福音の宣べ伝えられるところでは、必ず「受け入れる者」と「受け入れない者」があらわれる。多くのユダヤ人が心を開かないことを、パウロは、福音が異邦人へと広がっていくための神の計画であると理解した(cf. ローマ11:11−)。
この「使徒言行録」は、「パウロは、自費で借りた家に丸二年住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(28:30−31)という文章で結ばれている。パウロの「その後」は、いったいどのようなものであろうか。パウロの最期については、ローマに2年間も住むことなく、ローマ到着後、比較的早い時期に処刑をされたという説や、皇帝ネロの治世に殉教したという説など、諸説が存在する。なぜ、使徒言行録の著者はパウロの死に言及しなかったのであろうか。それは、彼が「使徒言行録」を記した目的が「パウロの生涯を語ること」ではなく、「神の歴史を語ること」に他ならなかったからである。聖霊の主ご自身が先立ち、証人を用い、福音が広がっていった。「使徒言行録」は、そのことを証ししようとする文書なのである。