パウロを告発したいと願うユダヤ人の代表として、ユダヤの宗教社会の最高指導者である大祭司アナニアが長老たちや弁護士を引き連れて総督フェリクスの前に立った(24:1)。フェリクスはローマの政治世界の荒波に揉まれた人物であったが、彼の総督としての統治は混乱を極め、ユダヤ人社会は乱れていた。その上、彼は人妻であったユダヤ人女性ドルシラ(24:24)を強引に3番目の妻として迎えるなどのスキャンダルを抱える人物でもあった。それにもかかわらず、弁護士テルティロは総督フェリクスを持ち上げながら告発を始める(24:2〜)。彼らの告発のポイントは、パウロがユダヤ人社会に「騒動を起こす」人物であったと主張するところにあった(24:5〜)。ローマから任命された地方総督が一番気にすることは、その地方で「騒動」が起こることだったからである。テルティロは、侮蔑をこめてパウロを「ナザレ人の分派」と呼んだ(24:5)。ナザレはイスラエルにおいては異邦の地に隣接し異邦人との接触の多い辺境の地だったからである。
次に総督フェリクスは、パウロに発言を求めた。パウロはフェリクスに敬意を払いつつ、しかし毅然として弁明を始めた(24:10〜)。パウロは、アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、その後もイスラエルの人々が信じ続けてきた天地創造の神を自分も信じていると表明した(24:14)。
パウロは「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」(24:15)について語る。正しい者も正しくない者も、やがて神のさばきの前に立つということがここでは前提となっている。パウロにとって「正しい者はひとりもいない」(cf. ローマ3:9以下)。しかし、罪びとである自分を赦して義として下さるキリストを信じることによって希望を頂く者にとって、今やさばきは恐れの対象ではない。
「良心」(24:16)とは、原語では「共に知る」という意味を持つ言葉である。神の御心と自分自身の心がつながり、神の戒めがどのようなものであるか分かるように、すべての人には「良心」が与えられた。神とかかわる心を頂いてるのが人間であり、自分で自分の責任を負わなければならないのが人間である。それゆえに「さばき」はある。「良心」は神が発信する電波をキャッチするアンテナのようなものである。アンテナが方向を変えたり、古くなってしまえば、電波をキャッチすることはできない。神の御心を知るとき、「良心」は自分自身を告発する。赦された者は、絶えず「良心」を保つように努めようとするのである。
パウロはエルサレム教会への献金をどのように集めたのかということに言及していない(24:17)。そのため、フェリクスはパウロを資産家のように思ったのかも知れない(cf. 24:26)。フェリクスも「良心」のゆえに、パウロが「正義や節制、来るべき裁き」について語ると「恐ろしくなった」(24:25)。一方、フェリクスは後々まで「ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた」(24:27)。フェリクスは、地方総督として、正義を貫くことよりもユダヤの上流階級の人々とうまくやっていくことに心を砕いたのである。