ネヘミヤとはどのような人物であったか。
ネヘミヤはペルシア王宮の給仕役であった。当時、王の給仕役は王の信頼の厚い役割であり、食卓で親しく王と接する機会を得ることができた。ネヘミヤは、エルサレムが荒廃したままであることに心を痛めており、町の再建のためにつかわされることを王に願った。王はその願いを聞き入れ、ネヘミヤをエルサレムの城壁修復工事の責任者、ユダ州総督として派遣した。周囲からの様々な妨害にもかかわらず、城壁工事は比較的短期間で終了した。ネヘミヤはそのために労する人々の負担を考え、人々の負債を帳消しにする政策を立て、自らも12年の間、給与を受け取らなかったのである。
そして、イスラエルの人々は8章以下にあるような礼拝を共にささげた。
[b]民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持ってくるように求めた。祭司エズラは律法を会衆の前に持ってきた。そこには男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。・・・彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。(8:1−3)[/b]
人々はエズラやネヘミヤに強いられ、神の言葉を聴くために集まったのではなかった。人々の側からそれを「求めた」のである。男女問わず、様々な年齢層の人々が集まったが、彼らは皆、「一人の人のように」なり神の言葉を聴いた。昔も現在も、神の言葉が読み上げられるのを聴く(現在の礼拝で言えば「聖書朗読」)ことは、礼拝の大変に重要な場面である。
[b]エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。(8:5−6)[/b]
ここに、礼拝のひとつのモデルがある。礼拝の中で会衆は「お客様」「観客」「傍聴者」ではない。集う者は皆、神の言葉に真剣に耳を傾け、祈りや賛美、奉献などの様々な形で「応答」する役割を担うのである。
[b]彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。(8:8)[/b]
この礼拝において、「レビ人」(8:7)が重要な役割を果たしている。彼らは、読み上げられた律法の書を、人々が理解できる言葉に翻訳し、更にその意味を解説したのである。礼拝の中には、このような教育的な役割も期待されている。
[b]総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明にあたったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。・・・今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(8:9−10)[/b]
尊敬を持って朗読され骨身を惜しまず翻訳され、信仰深く受け止められた律法に民が応答するとき、それは「泣く」という結果になった。彼らは長い間、まことに神の言葉に耳を傾け礼拝をささげるということをしていなかったからである。ここでは、このような悔い改めの嘆きが不適切とされたわけではない。ただ、この日は「第七の月の一日」(8:2)であった。この日は「新年」という「主にささげられた聖なる日」であり、喜びつのぶえを吹き鳴らすという別の目的のために取り分けられた日であった(レビ記23:24)ために、ネヘミヤらはこのように民に勧めたのである。「決して神の前で嘆くな」と忠告されているのではない。ネヘミヤ記においても、9章では同じ民が罪を告白し嘆いている。本来、「喜び」と「嘆き」の両方は神の前における生身の我々の事実であり、神はそのすべてを知って下さる。現代の礼拝においても、「喜び」と「嘆き」の表現は交互にあらわれ、我々の信仰の複雑な本質を誠実に証言しようとする。教会暦においても、アドヴェント、クリスマス、エピファニーの喜びの後にはレントがあり、そしてイースターの喜びがめぐってくる。「嘆き」と「涙」はそのままにしてはおかれない。神はその後に大きな喜びを与えようとして迎えてくださるのである。
また、この箇所には礼拝のモデルとなるもうひとつの表現がある。それは礼拝するために集まってきた多くの人々が「一人の人のように」なった(8:1)というところである。礼拝の場で、我々は自分勝手に、自分の好みに従って、自分の好みにあうものだけをかすめとろうとはしない。礼拝は、我々が共に神にささげるものだからである。年齢も、立場も、好みも、性格もバラバラな人々が、「我々の神に、共に礼拝をささげるのだ」という信仰の決意を持って参じるとき、我々は信仰の共同体としてひとつにして頂けるのである。
しかし、この「ひとつ」とは、個々の輝きが押し殺され、均質化され、皆が同じ顔にされていくということを意味しない。10章を見ると、「神の掟と法を受け入れて生きていく」と誓約した者のリストが紹介されている。名前とは、すなわち個々の人格である。ネヘミヤ記は、「ひとつになること」と同時に、「共同体のメンバーそれぞれが、生き生きと応答する」姿を描き出している。共同体、個人双方の重要性と責任が描き出されている。
このように、礼拝の中には様々な「両義性」が存在する。「喜び」と「嘆き」、「喜び」と「聖なる者への畏れ」、「ひとつになること」と「個々であること」などである。我々は、その豊かな複雑さをどのように受け止めて礼拝を形成していくのであろうか。ことにバプテスト教会は、定まった礼拝の形式を持たない。常に祈り、聖書に聴き、学び、語り合い、思い巡らしながら、礼拝を形成し続けていく光栄な務めを頂いている存在である。まことの礼拝がささげられなくなったら、どんなに施設や他の事業が立派でも、もはやそこは教会ではない。礼拝を形成することが、まさに教会の形成である。新しい会堂をささげるにあたり、我々はこのことを心に深く覚え、歩みたい。