パウロは彼らに対し、あくまでも神のわざを証しし(19節)、それを聞いた人々は神を賛美した(20節)。
ヤコブらは、パウロが「異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言ってモーセから離れるように教えている」(21節)と受け取られていることを懸念していた。この言説はパウロの思想としては不正確である。パウロは、ユダヤ人社会に生きるユダヤ人が宗教的慣習に従うことを否定してはいないからである。ただ、パウロはそれを絶対視しなかった。「(ユダヤ的な)宗教的慣習に従うこと」が信仰者の絶対的条件ではないとパウロは考えたのである。しかし、ユダヤ教社会で律法に基づく行為や慣習を守ることが必須であったユダヤ人キリスト者は、パウロの発想に疑義を持たざるを得なかった。
パウロを敵視するユダヤ人キリスト者への対応について、ヤコブらにも迷いがあった(22節)。そこで、パウロに対してある妥協策を提示したのである。すなわち、「誓願」を立てた者たちのために「頭をそる費用」をパウロが出すことによって、パウロがこのようなユダヤ的慣習に否定的ではないということを明らかにしようという策である(23−24節)。この「誓願」とは、「ナジル人の誓願」であると考えられる。ある誓願を立てたものは、その間、頭の毛に剃刀を当てることをしない。そして一定の期間が過ぎた後、その者は剃髪し、感謝の供え物を献げるのである(26節)。ここで誓願を立てた「四人」は、貧しかったために供え物を用意することができなかった。そこで、パウロが代わって彼らのために供え物を用意するための費用を拠出せよ、ということである。パウロはその勧めに従った(26節)。
パウロは神殿の境内で「ユダヤ人」(27節)の扇動により、捕らえられた。この「ユダヤ人」とは、ユダヤ人キリスト者だけではなかった。むしろ、そうでないユダヤ人のほうが、よりパウロに対して否定的だったからである。ユダヤ人にとって、「律法」と「神殿」は確固たる中心であった。「律法」の解釈については、サドカイ派とファリサイ派の間に違いがあったように、ユダヤ人の中でも様々な相違があったが、「神殿」で行われる宗教的儀式において、ユダヤ人はそのような差異を乗り越えてひとつにされることができた。それゆえに、エルサレムの神殿はユダヤ人にとってまさに中心的な、大切なものとなっていたのである。
都は大騒ぎになり、パウロは境内から引きずり出され、まさに殺されようとしていたとき、この騒動を聞きつけた「千人隊長」に率いられた「守備大隊」の兵士たちが現れ、パウロを兵営へ移送しようとした。そこでパウロは「弁明」の機会を求め、許可を得た。パウロは「ヘブライ語」(アラム語)で出自、自らの回心のできごと、「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」という主の言葉により、異邦人のための宣教者とされた次第を弁明した。
それを聞いた人々は「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない」と怒り狂った(22章22節)。彼らは、パウロがユダヤ人を異邦人と対等にとらえたことに対して怒りを燃やした。それはすなわち、「ユダヤ人は神に特別に選ばれた民なのだ」という思想を否定するものだったからである。
再びの混乱の中、千人隊長はパウロを取り調べるために、パウロを鞭で打ちたたこうとした(24節)。鞭打ちという行為は、ローマ市民になされるものではなく、外国人や奴隷に対するものであった。そこでパウロは自らが「ローマ帝国の市民権を持つ者」(25節)であることを主張した。ローマの市民権は、属国の民であっても、ローマ帝国に何かしらの貢献(例:金銭や土地の提供、軍事的貢献)をすれば得ることができた。千人隊長はそのようにしてローマの市民権を得た者であった(28節)。しかしパウロは「生まれながらのローマ帝国の市民」(28節)であるということが判明したため、千人隊長は「恐ろしくなり」(29節)、手を引いた。ローマ市民を不当に鞭打ったなら、それを行った者が罰せられるからである。
翌日、千人隊長は「なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い」(30節)、パウロを「最高法院」の取調べの席に立たせた。ユダヤ人はローマ帝国の中で自治を認められており、「最高法院」(七十人議会、サンヘドリン)においてユダヤ人の政治問題、宗教問題、教育問題などに対して最終的な判断を決議していたのである。その議長が「大祭司」(23章2節)であり、祭司長と長老(貴族階級、サドカイ派が主)、律法学者(ファリサイ派が主)がその構成員であった。このような場で、パウロは「良心」(1節)について語り出したのである。