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地域と共に歩む桜並木の教会

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主日礼拝宣教要旨

2008年6月15日

本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。                                                      ヨハネによる福音書9章3節

弟子たちは生まれつき目の見えない人を見て、主イエスに「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と問うた。今日の聖句は彼らに対する主イエスの答えである。災難や不幸な目に遭うと、罰が当たったとか、両親や先祖の罪がたたったのだと言う人々がいる。しかし、罰が当たったと言われても、それで苦しんでいる本人が救われるわけではない。

主イエスはこのような因果応報説を否定する。そして、その人の苦しみは神の栄光が現れるためであると語る。そして、主イエスは目の見えない人の目を癒された。まさに、この人は主イエスの言葉に希望を与えられ、主の業によって自分に向けられた神の愛のまなざしを見る者となった。

私たちは皆、さまざまな問題を背負っている。そして、負わされている問題の暗さだけを見て、不幸を嘆き、また、その原因にこだわっている。そのような私たちが主イエスの言葉を聞くとき、物事を見る目が根本的に変えられる。たとい不幸と思われることを背負わされても、失望しない。そこに神の摂理があり、神は必ず良いことに変えてくださると信じるからである。そして、神の御業を待ち望んで生きるのである。主イエスに信仰の目を開いていただくことは肉体の癒しに勝る。主イエスの言葉は、私たちに神の愛の光の中にある自分を知らしめ、苦しみを前向きに受け止める希望と勇気を与える福音である。;;”326″

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