ルカの描く降誕物語が表現しようとしているものは何か。それは「イエス・キリストとはどのような方か」という信仰告白である。ルカは様々な表現(「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ(27節)」「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる(32節)」「彼は永遠にヤコブの家を治め(33節)」など)を用いて、イエス・キリストの誕生をダビデやイエスラエルの関係の中で語る。それは「イエス・キリストこそ、神の救いの歴史の中で約束されたメシアである」という信仰告白なのである。またルカは、単なる「ユダヤ人の王」としてではなく、「神の子」「真に神、真に人」としてイエス・キリストを告白する。
「天使ガブリエル」は、「ナザレというガリラヤの町」に住む「マリア」のところに神から遣わされた(26,27節)。この「ガブリエル」はダニエル書9章にも登場し、聖書の中でメシア預言と深い関わりを持つ存在である。
ガブリエルはマリアに「おめでとう、恵まれた方」と語りかける(28節)。当然のことながら、マリアはその言葉に「戸惑い」「考え込んだ」(29節)。
神の恵みとは、「良いことばかり起こる」「無病息災」ということとは違う。マリアの生涯とて、決して平坦なものではなかった。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(2:35)というシメオンの預言のとおりであった。しかし、神の恵みとは、それでもなお、神が選び、用い、共にいて下さることであり、それがまさに祝福なのである。
「ナザレ」という地はユダヤにおける辺境の地、異邦の地として軽視されていた。「マリア」にせよ、恐らく当時20歳にならないような年齢の、小さな存在であった。神の語りかけは、自らを「弱い者、無力な者」と感じている者のところにやってくる。
ガブリエルはマリアに、「あなたはみごもって男の子を産む」と告げた(31節)。それは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」からであり、生まれる子は「聖なる者、神の子」と呼ばれる(35節)。「イエス・キリストが神の子である」という理由は、神が「処女降誕」という超自然的な出来事によってイエスを誕生させたから、ということではない。この出来事が完全に神のみわざによるものであり、聖霊の出来事であるというところに我々は注目しなければならないのである。「イエス・キリストは神の子」「イエス・キリストは真に神にして真に人」ということを合理的に説明することはできない。これらの事柄は、聖霊に導かれた信仰に拠らなければ分からないのである。