わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。(フィリピ3章12節)
パウロは主キリストに捕えられ、他の何にも勝る主の恵みを知った。そうであればこそ、パウロはもっと主の恵みを得ようと求める。主の恵みは常に新たに受けねばならない賜物である。主の恵みをいつも新たに受けなければ、多くの困難が伴う世にあって、力強く生きて行くことができない。
私を捕らえ、私を愛してくださるキリストの恵みは完全である。しかし、私を捕らえて離さず、愛してくださっている主キリストを、私がどれだけ信じ、本気にしているかと言えば、その点において、私の信仰は不完全である。それで、私は主の恵みにわが身を委ねようと努力する。私たちが主キリストによって差し出された神の愛に身を委ねるようになるまでに、時間がかかるのである。しかし、主が私たちを捉えてくださっているので、私たちの信仰は不完全でも、信じて知ったところから、主を求めて前に進めば良い。そうすれば、私たちは神の愛の深さ、高さ、広さを知るようになり、神の愛は永遠であることを確信するようになるであろう。
パウロは信仰生活を「歩く」というよりも、もっと激しく「走る」と言い表した。パウロの「走る」は、宣教と奉仕のために、いつも体を動かしているということではない。キリストとの深い交わりを求める真剣さである。静まって神を礼拝し、「キリストに捕えられている」ことを知る真剣さである。「わたしはあなたを贖った。あなたの罪は赦された。あなたはわたしの愛する子」と語りかける神の言葉を聞き、神に愛され、キリストに捕えられている自分を知って、喜んで主の愛に応える信仰生活を続けるのである。パウロを捕らえているキリストの愛が、彼を前に向って走る人間にする。主との交わりがなかったら、激しく走る人生は、疲れるだけで、徒労に終わるであろう。
パウロは、自分はまだ目標に到達していないことを自覚して、キリストが自分を捉えて天の御国に導き入れてくださるその時まで、絶えずキリストを求め続けているキリスト者こそ、「完全な者」(信仰の成熟者)であると言う。;;”279″