わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。 (フィリピの信徒への手紙3章8節)
ユダヤ社会において、パウロは誇るべきものを身につけたエリートであった。しかし、キリストを知った時、彼がそれまで生きる上で有利なものと考え、努力して手に入れ、誇っていたものはすべて、何の意味もない「塵あくた」とみなすようになった。冒頭の言葉は、主イエス・キリストを知ったパウロの価値観の転換を物語っている。
では、「キリストを知る」とはどういうことか。聖書の世界では、「知る」とは知識を得ることではなく、親密な交わりによる人格的知である。だから、「キリストを知る」とは、霊的な交わりによって生ける人格のキリストを知ることである。
勿論、誰でも先ず、聖書を読んで「キリストについて」の知識を得るだろう。しかし、キリストを信じた者は、もはや知識を得ることで終わらない。生けるキリストの名を呼び、話しかける。キリストはあらゆる場所に遍在される聖霊の神であるが、私たちはキリストが眼の前におられると信じて、話しかける。そして、「主よ、語ってください」と祈って聖書を読み、私たちの魂に語りかけてくる神の言葉を聞く。ある時は、私たちを愛し、慰め、力を与えてくださる御言葉を、ある時は、私たちが従うべき神の御心を聞く。また、「苦しみの日に、わたしを呼べ」という神の言葉に促されて、「主よ、助けてください」と祈る。このように、一対一の交わりによって、私たちは「わたしの主」、生けるキリストを経験する。
パウロは神の救いを「キリストを知る」と言ったが、別の言い方もする。一つは、「キリストの内に自分を見出す」である。「キリストを知る」とは、どんな境遇に置かれても、キリストの中に生かされている自分を知るのである。
また、「キリストを知る」とは、神に背く人間との間に正しい関係を回復しようとする神の義を知ることである。私たちに働きかけ、神との正しい関係を生み出す神の義は、あくまでも神からの無償の贈り物である。私たちはそれを信じて受け取るだけである。信仰によって、「キリストを知る」人生が始まる。;;”277″