それは我々が自分の努力で達成できるものではない。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(13節)。「信じたい」という救いの願いを起こし、歩ませて下さるのは神なのである。我々はその神に望みを置いて生きていく。
続けて「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(14節)と勧められる。この「不平」という言葉は、出エジプト記の中で、イスラエルの民が神に対してつぶやき反逆する際に用いられる言葉と同一である。旧約聖書における民の歩みは、神の約束の地へ向かう神の民の姿を示し、信仰における旅の途上にある我々に指針を与えている。
パウロは現世を「よこしまな曲がった時代」(15節)と表現するが、それは新約聖書の中でしばしば用いられるイメージでもある(cf. 使徒言行録2:40)。神との関係を見失うとき、この世は「曲がった」時代となる。そして様々な問題が生じてくる。
その中で「とがめられるところのない清い者」「非のうちどころのない神の子」(15節)であるということは、「欠点のない人間になる」ということではない。それは誰にも為しえない。既に神が、信じる者を救い「神の子」として下さった。それゆえに救いにあずかる者は、神に対して誠実に歩もうとさせられるのである。そして「世にあって星のように輝き」(15節)、「命の言葉をしっかり保つ」(16節)者とされる。これも、自分が自ら光り輝くのではない。神の命の言葉をしっかり保つゆえに、この世にあってキリストの光を証しし反射する存在として「輝く」のである。
これらのことを、パウロは「キリストの日に誇ることができるでしょう」(16節)と言う。「誇る」とは「喜ぶ」という意味である。救いには「既に」と「未だ」の両面がある。キリストを主と信じる者は、「既に」福音にあずかりキリストの救いにあずかり、神の子とされた。そして、「未だ」到来していない「キリストの日」という約束の地に向かっている。「キリストの日」は「終わりの日」であり、そこで救いのみわざは神の御国において完全に成就する。
「わたしの血が注がれる」(17節)とは、パウロの殉教を暗示する言葉である。信仰の道から脱落する人々が多くある中で(cf. 3:18)、フィリピ教会の人々がキリストにつながり、礼拝につながり続けることはパウロにとって大きな喜びであった。
そしてパウロは「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(18節)と勧める。パウロの使徒としての喜び、共に神の国へ向かう途上にあることの喜びを、パウロは愛するフィリピ教会の人々と分かち合いたいと願ったのである。