キリストは、・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 (フィリピの信徒への手紙2章6節)
キリスト・イエスは「神と等しい」方であるのに、「自分を無にして」その身分を捨て、完全な人となられた。キリストは、ベツレヘムの馬屋に生まれ、権力も社会的地位も持たない大工の子として育たち、生きる憂いを味わい、誘惑にも遭った一人の人間であった。キリストは30歳で世に出て、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:35、36)。キリストは、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マタイ20・28、口語訳)と言って、人々に仕える「僕」として生きた。
キリストは多くの人々と深く関わる生活の中心に、退いて父なる神に祈る時を持っていた。キリストはそこで、人々に仕え、そのために命を犠牲にする使命を自覚し、これを行う力を得た。
キリストの死は自然死ではなく、犯罪者に課せられた十字架刑である。それはキリストの生涯もその働きも完全に否定される屈辱的な死であった。イザヤの預言「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ・・。 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。・・彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(53:3、5)。冒頭の聖句にあるように、キリストは「死に至るまで」父に服従して、十字架にご自分の血を注ぎ、神の預言(契約)を果たされた。「このため」、神はキリストを陰府のどん底より引き上げ、「あらゆる名にまさる名」、「主」という名を与えた。この人間イエスが、この地上で私たちに出会われる「主」(神)である。人間イエスにおいて他に、私たちが神を知る方法はない。キリストこそ、罪のために病んでいる世界に救いと望みを与える神である。
「へりくだって、相手を自分よりも優れた者と考えなさい」というパウロの勧めは、私たちが努力すべき道徳ではなく、キリストを知り、キリストとの交わり(祈り)によって与えられる賜物である。;;”301″