ようこそ西川口キリスト教会のホームページへ

地域と共に歩む桜並木の教会

教会員ページ
未分類

2008年10月1日

 「キリストによる励まし」「愛の慰め」「“霊”による交わり」(1節)とは、三位一体の神の祝福をあらわす。「あなたがたが本当にキリスト者なら、このような神の祝福の恵みにあずかっているなら、一致できるのだ」とパウロは勧めるのである。

 「同じ思い」(2節)とは「同じ愛」「他者を思いやる心」と言い換えることができる。他者の信仰と比べ、高慢な思いを抱くなら、そこに「同じ思い」は生じない。キリストの祝福に生かされているなら、他者を思いやり、神に相応しい者として生きることができる。

 「利己心」(3節)は「党派心」とも訳される。教会の中で自分の主張を通そうと野心を持ち仲間を作ることである。「虚栄心」(3節)もまた人を誤らせる。「人に良く見られたい」という見栄、人からの評判で自分の行動を左右する誘惑である。

 信仰者は「利己心」「虚栄心」から自由にされ、神に従って生きようと願う者にされる。「自分が」ではなく、「相手の」賜物を受け入れ認める者とされる。その際、前出の祝福が必要になるのである。

 「他人のことにも注意を払う」(4節)とは、他人の信仰の賜物に目を留め、大切にして喜ぶことである。「自分が」ということではなく、お互いの賜物が組み合わされ、造り上げられることが重要である。その際、「愛」が我々を結び合わせる接着剤となる。他者を認め喜び合い、他者と共に仕えていく「へりくだり」の姿を、我々はキリストから学ぶ。この世では自己主張をしない人間は潰されていくが、キリスト者は教会の中でキリストの謙遜の姿に学びつつ生きる。

 6節〜11節は、初代教会に生まれた「キリスト賛歌」と言われる。「神の身分」(6節、形、神と等しい者)であるキリストが「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者に」(7節)なられた。そして徹底して人間として僕として、神と他者とに仕えるために従順に生き抜かれた。「十字架の死」(8節)は無論、自然死ではない。「極刑」である。徹底的に惨めな死である。苦しめられ、権力によって抹殺される屈辱の死である。キリストは最後まで神の御心に従順に生きられた。

 9節の主語は「父なる神」である。キリストは自分で高く上がったのではなく、神によって「高く上げ」(9節)られた。そして「あらゆる名にまさる名」(9節)、すなわち「主」「神の御子」「救い主」という名を与えられた。このキリストにあって父なる神が我々に出会い、救って下さる。主イエス・キリストにおいて以外に、創造主なる神に出会うことはできないのである。

関連記事

PAGE TOP