イザヤ書11:1~10「その日が来れば」
総合テーマ 神のみ言葉の確かさと力
・今月のみことばの学びの視点…その1 私たちが目指すことができる神の国の素晴らしさ
・今月のみことばの学びの視点…その2 神が導いておられる礼拝とは
◆課題(クイズ)
・前々回のイザヤ書6章13節、前回のイザヤ書1章17節と今回の箇所との関連性に気づくことができるでしょうか。
◆黙想のポイント
1.今回の代表的なキリスト預言の箇所を黙想しましょう。どのような主の霊がキリストに留まるのでしょうか。
2.やがてキリストによってもたらされる平和とはどれほどすごい平和なのか黙想しましょう。
◆聖書箇所…
11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
11:3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。
11:4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
11:5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。
11:6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。
11:7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
11:9 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。
11:10 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
参考…前回の課題箇所
1:18 論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。
今月はイザヤ書から天の御国における礼拝のすばらしさと主の御言葉の確かさについて聞いています。前回までにすでにその素晴らしさについて学ぶ一方で、まず私たちは神に逆らう一切の罪を悔い改め、清められる必要があることを学びました。ただし、神の側にはすでにその備えが万全に整えられているということも学びました。その上で神は我々に社会的な様々な差別や不正義に対しても責任を問う言葉や自分の血ぬられた手を清めよとの御言葉もあり、私たちは神に「そうは言っても…」と神に反論したくなる内容も含まれていることを前回見て来ました。しかし、それをすでに見越して神は1章18節で「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。」と語り、私たちがたとえどんな罪を犯し、もはや元通りの清さには戻れないと思っていても、神にだけはすべての汚れた罪を雪のように白くすることができるとの返事が与えられます。従って、問題は私たちが神の全能性を疑い、自分たちには到底こうなれるはずがないと、神の御業とご計画と意志を真剣に受け止めないことにあるのであって、もし私たちが本気で神に救いを求めさえすれば、私たちは神の御言葉の通りに罪を赦され、清められ、天の御国における礼拝に参加するのにふさわしい者に造り変えられていくことができるのです。
この素晴らしい福音を踏まえた上で今回、もう一つ天の御国を受け継ぐことが赦されている私たちへと励ましの言葉が加わります。それは主イエス・キリストがもたらす絶対的な平和です。その平和はどのようにして私たちのものとなるのかについても今回の箇所は言及しています。以前に6章13節で「しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。」という御言葉が登場しましたが、この切り株は今回の「エッサイの株」と連動していると考えられます。キリストはイスラエル史上最も有名なダビデ王の家系から誕生するとの預言もありますが、エッサイとはそのダビデ王の父を指します。その救い主に与えられる特別な神からの祝福とは何か、2~3節に「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。」と表現されています。今日に至るまで、人類に最も欠けており、また本来必要とされているのは実はこの世界を創造し、素晴らしい祝福のご計画を忍耐されながら実行し続けておられる主なる神そのものを本当の意味で深く知ることにこそあると言うわけです。主なるキリストはその神を知り、恐れ敬う霊に満たされているお方です。イエス・キリストを信じ受け入れる時、キリストから遣わされる聖霊の働きによって、私たちも主のご性質に満たされることになるとの約束です。
この方を中心にして存在するのが天の御国です。そして主を知り、畏れ敬う霊に満たされた天の御国はどれほど優れているのか、前回1章16~17節で「洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。」という人類が幾世紀にもわたって解決できないで来た社会問題にまで11章4~5節に語られるように主なるキリストによって解決へと導かれることが語られています。しかも、最後まで主に逆らい続けた人々は裁きを受けて滅ぼされ、その後であらゆる存在はかつてない平和な世界に生きることになることが6~8節で「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。」と表現されます。それまでは天敵であったものたち同士がともに平和に暮らすようになることが預言されているのです。ここに私たちの希望があります。この世における最も難しい現実の一つは、私たちが敵を赦すことができず、共に食事をすることも、共にいることも、共に生きることも赦せない思いに支配されてしまうことです。ところが、ここには真の和解が成立し、かつては命を脅かす敵のような存在だったものたちが、真に平和に暮らす天の御国の姿が語られているのです。これこそ、神が導いて下さろうとしている世界だとイザヤを通して神は私たちに語りかけて下さっているのです。
最後に10節の御言葉を味わいましょう。そこには主なるイエス・キリストの旗のもとにあらゆる民族が共に集い、主の栄光に包まれることが預言されています。私たちは主の栄光を浴びることに本来耐えられない罪人たちです。しかし、主なる神の憐れみにより、その栄光の光に包まれることが赦されるのです。そんな素晴らしい天の御国が私たちの未来にあることを感謝し、そのような未来につながる今を共に力を合わせて生きていきましょう。