ヨハネによる福音書14:1-14
この14章から、主イエスが最後の時を迎え弟子たちに語られた「告別説教」と言われる箇所に入る。そのような状況の中で語られていることをおぼえ、我々は主イエスの言葉を読みたい。
「心を騒がせるな」(1節)と主イエスは語り始められた。この「心が騒ぐ」とは元々、「嵐の中で海の水が激しく波立つ様子」を表現する語である。そして「神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」(1節)という呼びかけが続く。このように言ってくださる主イエスを「信じる」とは、何か教理を「信じる」ということではなく、「主イエスに身を委ねる」ということである。英語で「信じる」と言う時には、”believe in”と表現する。この”in”という語に表われているように、主イエスを「信じる」とは主イエスの「中に」自分の身を置き、信頼し、委ねるということなのである。「信仰とは、神の真実に対する勇敢な信頼である」と言った人がいる。弟子たちはこの時、「主イエスがどこかに行ってしまうかも知れない」という不安の中にあった。我々も人生の中で問題に直面する時、「どうなってしまうのだろう」と不安になり、混乱してしまうこともある。しかしそのような者たちに対する「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」という主イエスの言葉は、本当に我々を立ち上がらせてくださるものである。
聖書にはしばしば「家」が登場する(ex. ルカ15:11-)。神こそ代々にわたり我々の住みかである(cf., 詩編90:1)。主イエスは「わたしの父の家には住むところがたくさんある」(2節)と語られた。この先、主イエスはまさに十字架の死を通り、天に帰られる。それは「父の家」「天の家」に全ての者のために場所を用意しに行かれるということである。それゆえ、肉体の「死」は「終わり」ではなく、「新しい始まり」に他ならない。ナチズムと闘った牧師・神学者として知られるディートリヒ・ボンヘッファーは、いよいよ処刑されることが伝えられた時、同房の仲間に言った。「これがいよいよわたしの終わりです。そして、いよいよわたしの始まりです」。主イエスの言葉に賭けている信仰者の言葉である。
「住むところがたくさんある」とはどのような意味であろうか。それは、「住むところはたくさんあるのだから、そこから誰も排除されることはない、心配無用だ」ということである。教会ではご遺族の申し出により、信仰を告白していない方の葬儀を教会の名でさせて頂くことが多くある。そこで教会は「全ての人々のために天の国は備えられている」という信仰を語る。「天の国はこれこれの条件を満たしている者のためにしか備えられていない」「そのような条件を満たしていない者は天の国に入る資格がなく、裁かれる」というのは福音ではない。キリスト者が信仰を与えられたのは神の一方的な恵みによるのであり、人間が自分自身の力量や才能で信仰を獲得したわけではない。信仰を与えられることによって、キリスト者は天の国の存在、そして今、神と共に生きているということが確信でき、その幸いを味わうことができるようになる。「既にキリスト者である自分には天国が約束されており、今信じていない者は裁かれる」と言うことはできない。主イエスは全ての人のために贖いのわざを成し遂げられた。今既に信仰を頂いている者は、幸い、先に信仰を与えられ、天国の先立つ味わいを頂く喜びに先にあずかっているということである。そのことを喜びたい。
主イエスは「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(3節)と言われた。「戻って来る」とは「弁護者」(16節)、すなわち「聖霊」として共にいてくださるということである。天国というのは死んだ後のことだけではない。既に神の国は我々のところにある。地上においても、祈りを聴きみわざを成してくださる主イエスが共におられるところに天国がある。そして、地上の命が終った時に神と相まみえるのである。そこで我々は今まで見知らなかった神に出会うのではない。既に知っている主イエスに出会うのである。しかし同時に、「神のもとに行くまで全ての事を知ることはできない」という留保を持たなければ、その信仰は原理主義的なものになってしまう。「自分たちだけが救われている」という発想があるならば、他者を排斥する信仰になってしまう。天の住まいが備えられているという希望を先に頂いた者は、同時に他者を排除せず、むしろ排除された者たちを無条件に受け入れた主イエスの道を歩むようにと招かれているのである。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)とは、主イエスの良く知られた言葉である。主イエスが「真理」であるとは、主イエスがまさに神であり、その神が我々一人一人を愛してくださっているということである。「命」とは肉体的な命とは違う、「永遠の命」のことである。それは主イエスの御言葉を聴き、主イエスを信頼し従っていくという交わりを持つ「命」である。
主イエスが受肉されたことにより、父なる神は啓示された。我々は主イエスにおいてしか、神を知ることができない。旧約聖書においては、預言者を通して神の事が語られた。神を見ることは誰にもできず、神の名をみだりに呼ぶことすら憚られた。人間を全く超越した存在である神を親しみを持って呼ぶことができないという信仰がそこにあった。それゆえに、「主イエスが神である」ということにユダヤ人たちは躓いたのである。
「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(8節)とフィリポは言った。「神を直接見たい」という願望が人間の中にはある。それに対し主イエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)と言われた。主イエスと交わりを持つ者は父なる神を見ており、父なる神との交わりに入れられているのである。
父なる神とご自身が一体であることを繰り返し語られた主イエスは、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(11節)と命じられた。主イエスの言葉と働きとは、神の言葉と働きそのものである。主イエスとの出会いによって、我々は神に出会うことができる。
主イエスを信じる弟子たちの働きにおいて、主イエスの働きは更に大きく進んでいく(12節)。主イエスはこの地上でみわざをなされたが、それは人の子として限られた場所でのことであった。しかし聖霊として主イエスが来られる時、主イエスは弟子たちの内に働き、主イエスのわざは世界的な広がりを持つようになった。
天に帰られた主イエスは、ご自身の名による祈りを聴き、聖霊においてご自身のわざをなしてくださる(13-14節)。「心を騒がせるな」という信仰を求められ、主イエスの名によって祈る時、神は共にいてくださり、励まし慰め、必要なものを与えてくださる。「弁護者」、すなわち「聖霊」をもって祈りに応えてくださるという神の約束がここで語られているのである。