ヨハネによる福音書10:1-6
パレスチナは牧羊の民の地であった。そして主イエスは「羊」のたとえを用いてお話しになった。
夜の間、羊は「羊の囲い」(1節)の中で保護され、その門は門番によって守られていた。朝になると羊飼いは囲いの中から「自分の羊の名を読んで連れ出す」(3節)。草の茂る野や水の湧く谷に羊を連れて行くためである。目的地に到着すると、羊はそこで放牧される。そして夕べになると羊飼いは羊を連れ帰り、再び囲いの中に導き入れるのである。
パレスチナ地方はなだらかな平原ではなく、一帯は岩石に覆われた荒れ野であった。雨季を除けば長い乾燥期が続き、川は干からび、草木の多くは枯れ果てる。このような荒れ野に生息する羊は、自力で命を全うすることができなかった。羊飼いを信頼し、その導かれるままに従っていくことなしに放置されてしまっては、羊は生きていけないのである。
主イエスは「門から入るのが羊飼いである」(2節)と言われた。羊飼いだけが、正当に囲いの門を通り、自分の羊を呼ぶことができる。主イエスも神が備えられたご計画に従ってこの世に来られ、人を罪から救い、ご自分のもととして取り戻された。信じてキリストのものとされた人間は、羊がその羊飼いを見分けるように、自分の「主」を見分けることができるようになる。「羊飼いと羊」とは、「主イエスと信仰者」との関係のたとえである。
羊飼いが「さあ、行くぞ」と杖を振り上げれば、羊はついていく。その進む道が荒野であろうと、険しい谷間に向かう道であろうと、茨の茂る道であろうと、羊は「羊飼いについていけば、とにかく大丈夫だ」と信じてどこまでもついていくのである。
昔、イスラエルを旅行した折に印象深い光景を目にした。荒れ野に羊が群れていた。周りを良く見ると、羊飼いが岩場に座ってじっと休んでいた。羊たちは転々と放たれており、それぞれに多少の草を食んで過ごしている。しばらくすると羊飼いがやおら立ち上がり、歩き出した。するとそれまでバラバラに過ごしていた羊たちは一斉に羊飼いのもとに寄っていき、羊飼いを追って歩き出した。聖書に書いてある通りであった。ヨーロッパを旅行した時もバスの車窓から羊の放牧されている囲いが見えた。そこは緑が豊かで、羊飼いがいなくても十分に暮らしていける様子であった。パレスチナの羊とは違う、という強い印象が残った。荒れ野の地は、羊飼いなしに羊が生きていくことのできない場所なのである。
羊飼いは「自分の羊の名を読んで連れ出す」(3節)。日本でも牛馬を飼うところでは、一頭ごとに名前をつける習慣があるかも知れない。この羊飼いも、羊一匹一匹を可愛がり、それぞれの癖や性格を知っているようである。そのような羊飼いであるからこそ、羊のほうも安心し、全てを任せて、少しも思い煩わないで済むのである。旧約聖書にも「神」を「羊飼い」にたとえる箇所がある。詩編23編は、その中でも有名な箇所であろう。羊飼いが手にする「鞭」や「杖」は、羊を殴り脅すためのものではない。野獣に立ち向かう際の武器であり、谷間に降りる細長い道を通らなければならない時に列の後ろの方にいる羊に分かるよう、岩を叩いて合図するときに使われる。パレスチナの情景を思うほど、聖書にある「羊飼いと羊」のたとえはよく分かる。しかし、これらのたとえを聞いてもファリサイ派の人々は「その話が何のことだか分からなかった」(6節)。
我々の済む世界も、荒れ野であると言える。そこには愛する者との死別があり、病気があり、失敗があり、生活の困難があり、あるいは中傷や裏切りの人間関係がある。いじめがあり、争いがあり、戦争がある。貧富の差があり、若い人が取り残されてしまうような家庭の状況がある。経済的な困窮のゆえに学校に通えなくなり、若者が生きるために不法な道に入っていくような現実がある。そのような状況に置かれた者にとって、この世界、この人生は希望のない荒れ野であろう。我々の人生には多かれ少なかれ予期せぬ困難が襲い掛かってくる。そこは岩石の多い荒れ野、茨に遮られて歩くのに困難な道、不安の谷である。しかしその中で主イエスが共にいてくださるという心強さがある。羊は人間のように、弱く、迷いやすい存在である。だかrこそ、全幅の信頼をもって従うことのできる方、頼るべき方、安心して将来を委ねることのできる方がおられることを知っているかどうかということは大きな違いではなかろうか。
そのような意味においてこそ、主イエスは我が羊飼いである。一人一人を知り、名を呼び、大切にしてくださる羊飼いを見出す人生は幸いである。人生の荒れ野にあっても主が共にいてくださることに信頼するとき、厳しい現実の中で安心して憩うことがゆるされ、また厳しい現実を生きていく力を頂くことができる。「主こそ我が羊飼い」という信仰を、次主日の分級でこの箇所から学び、告白したい。