ヨハネによる福音書9:35-41
この物語において「前に盲人であった人」(9:13)は自分の目を癒してくれた人物について最初は何も知らなかった。しかし人々にそれを問われていく中で「あの方は預言者です」(9:17)だと言うようになり、やがて「あの方が神のもとから来られた」(9:33)と信じるようになっていった。しかしその時点でも、彼はまだ主イエスがその方であるということは知らなかった。すると主イエスはご自身から近づいて行かれ、「彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた」(35節)。「人の子」とは福音書において主イエスがご自分のことを言うときに用いた言葉であることは知られている。しかし、なぜ「人の子」なのか。それは、主イエスが「神のもとから来て人として歩まれる方」だからである。
神が預言者を通して約束された救い主の到来を、彼もまた待っていた。しかし、それが誰であるのかが分からず、彼は主イエスに「主よ、その人はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」(36節)と尋ねる。すると主イエスは「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(37節)と言われた。彼は既に、「救い主」に出会っていたのである。主イエスこそ、彼に先だって彼を憐れみ、救いに導かれる救い主であった。彼がそのことを知る前に、主イエスのほうが彼を知っておられた。
そして彼は「主よ、信じます」(38節)と告白した。「主」とは「在りて在る者」「全てのものの根源」「創り主」「全ての支配者」を指す。彼はこの言葉をもって、「主イエスこそ、神」「主イエスこそ、全てを支配しておられる方」という信仰告白をしたのである。彼は主イエスに「ひざまずく」(38節)。これは、主イエスを神として礼拝したことをあらわしている。
我々の教会では現在、「信仰告白」の改訂に取り組み、学んでいる。「信仰告白」とは、主イエスの問いかけに応えることであり、主イエスを通してあらわされた神の救いの福音を信じるという応答である。その福音とは、端的に言えば「神の御子が人となり、十字架につけられ死に、復活されたこと、それを信じる者は救われる」ということである(cf., Ⅰコリント15:1-8、ローマ10:9)。「復活を信じる」とは、「主イエスが何年か前に墓の中から起きあがったということを信じる」ということを第一にするのではない。むしろ、この「前に盲人だった人」にそうしてくださったように、今、先立って自分を憐れみ、救いに導き、出会ってくださっている「復活の主イエス」を信じるのである。今も生きて働いてくださっている主イエスとの出会いが、復活信仰の第一の事なのである。「イエスは主なり」という信仰告白は、そのような生ける主を、先立つ神の導きと恩寵を告白し、証しするものである。
また、「イエスは主なり」という信仰告白は、聖霊によらなければすることができない(cf., Ⅰコリント12:3)。先立つ聖霊の導きにおいてこそ、我々は主イエスを「主」と告白し、主イエスを礼拝する者とされる。単に、主イエスにおける過去の歴史的な出来事があったことを承認するか否か、ということではない。主イエスに出会った者は「ひざまずき」、礼拝するのである。壁の向こう側から光が射してくるように、復活の主イエスが自分に出会ってくださった。無から有を創造される神のなされたそのようなみわざを、我々は信じる。
主イエスはファリサイ派の人々に対し、「神」「救い」に関する事柄について「霊的に見えていない」ということを指摘する。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」(41節)とは、「自分は神について、救いについて知らないのだ」と認め、それを知りたいと主イエスに求めるならば、罪は赦されたであろうということである。霊的な救いを求める者に近づいて見えるようにしてくださるのが主イエスだからである。しかし彼らのように霊的に見えていないにもかかわらず「自分たちは知っている、見えている」と思いこみ、主イエスに出会っても救いを求めないなら、そこに「罪は残る」(41節)。
この「生まれつき目の見えない人」(9:1)もまた、病のゆえに人生の不条理を思わされていたが、諦めず、救いを求めて泣いていた。主イエスはそのような彼を憐れみ、近づいて行かれた。同じように、主イエスへの信仰は、自分の人生の中に起こった出来事の中で救いを求めるところから始まると言えるのではなかろうか。人生の不条理に泣き、自分の罪に悩む者を、神は救いと復活の光に照らしてくださる。ファリサイ派の人々のように、「自分は宗教の事柄については分かっているのだ」と自認し、主イエスを求めないならば、結果としてそこに「裁き」が残る。主イエスは「裁き」を目的としてこの世に来られたのではない(cf., ヨハネ3:17-18)。神が御子を世に遣わしたのは、人の罪を赦し救うためである。しかし、信じない者は「結果」として裁かれる。そしてこの「結果」について今、我々が「あの人はどうせ信じないだろう」と決めることはできない。神のみわざは我々の思いを超えて働きたもうことを我々は信じているからである。そして、キリスト者自身もまた、常に体を前に向けて主イエスを求める永遠の求道者であるということに変わりはないのである。