ヨハネによる福音書8:21-30(大田雅一神学生)
前回に引き続き、主イエスが神殿でファリサイ派の人々に語っているところだ。
私は去っていく、だが、私の来る所に、あなたたちは来る事ができないと言う(21節)。彼らはわからない。自殺でもするつもりなのかと言う(22節)。ここは、そうならないことを予想する推量形で、「死ぬつもりではあるまい」という訳になる。しかし、主イエスは十字架にかかって死なれる。そして復活し、天のみくに、神のみもとに昇天されることになる。その神のみもとに、罪あるままでは来ることはできないということだろう。
「だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
これは大変、恐ろしい予告だ。罪の中にあって罪のまま、死ぬだろうという預言は、呪わしく思われる。このユダヤ人、ファリサイ派の人たちを断罪し、死刑を最終宣告しているのだろうか。そうではない。それは、後を読めばわかる。
主イエスが強調しているのは、自分は何者であるのか、あなたがたとは、どう違うのか、ということ。私は、上から来たものであり、この世のものではない(23節)。すなわち、天上のもの、天にまします神のもとから来たもの。
しかし、あなたがた――これは私たちもそうだが、人間は下のもの、この世のものである。そのように違う。主イエスは罪のない方、しかし、私たちはファリサイ派も含めて罪の者。ユダヤ人や古代人だけでなく、日本人も現代人も罪から逃れられない。
では、私たち人間は結局、自分の罪の内に死んで、滅びてしまうのか。そうではない。
「わたしはある」ということを信じないならば、自分の罪のうちに死ぬことになる(24節)。ここは仮定形である。「信じないならば」ということは、信じれば逆になる。「わたしはある」ということを信じるならば、自分の罪のうちに死ぬことはない。アーメン。
主イエスを信じれば、救われるのだ。主イエスのみ名を呼び求めるものは、誰でも救われる。なぜなら、主イエスの十字架によって、自分の罪が赦されるからだ。罪のうちに死ぬことはなくなるからだ。永遠の命が与えられるからだ。
ファリサイ派でもユダヤ人でも、日本人でも私たちでも、信じれば誰でも救われる。
では、何を信じるのか。「わたしはある」ということ。謎めいた答えだ。
ユダヤ人もわからなかったのだろう。あなたは誰か(25節)と尋ねる。これはとても大事な問いだ。「イエスとは、誰なのか」。これがヨハネ伝全体を貫くテーマであり、ヨハネが最も訴えたかったテーマだ。主イエスご自身も言う。「初めから話していることだ」と。
主イエスは、言うべきこと、裁くべきことはたくさんあると言う(26節)。この「裁く」は、ケセン語訳では「白黒つける」。断罪というより、いいことはいい、悪いことは悪いとけじめをつけること。そして、主イエスは優しい。言いたいこと、叱りたいことはあるが、今は触れない。もっと大事な問題は、私が誰かということだと言う。
「私をお遣わしになった方」「真実な方」がいる、ということ。それは「父なる神」である。主イエスは、父なる神から遣わされた、神の子なのだ。しかし、この時のファリサイ派の人たちには、それがわからない(27節)。主イエスは、さらに説明して言われる。
父なる神のことを、打ち明ける大切なところだ(28~29節)。
「人の子」は主イエスの自称だ。神の子であるが、人間となって受肉されて世に来られた方。「上げる」とは十字架の上に「上げる」という意味だ。主イエスは十字架の後、よみがえる。その時になって初めて、主イエスが誰であったか真実がわかるという。
この28節で主イエスは「父に教えられたとおり」と、「父」と言っている。この「父」も、27節の「父」もギリシャ語で Πατηρ パーテール 大文字の頭文字「父なる神」を指す。さっき言われた「私をお遣わしになった方」「真実な方」「その方」とは「父なる神」。つまり、主イエスは「神の子」だと告白している。
私は父から教わったことを、そのまま伝えているだけなのだ。また、私は父の望むところを、そのまま行っているだけなのだと。父は、私といつも共にいる。
これは、前回のところと同じだ。私と父はいつも共にいる。私の証人は父である。
私のことがわかれば、父がわかる。主イエスを通して、神のことがわかる。
神を直接、見ることはできない。だが、主イエスを見れば、神さまがわかる。
主イエスは、父なる神の性質を、愛の本質を、子として表しているのだから。
ここですでに、この時に、信じた人がいる(30節)。これはすばらしいことだ。まだ、十字架の前、もちろん復活の前だ。だが、主イエスの言葉を聞いて、それで信じた人がいる。まだ見ていないのに信じた。見ないでも信じる者は幸いだ。
「あなたは神の子だ」と信仰告白したペトロは、主イエスの変容を見ていた。「この方は神の子だった」と告白した百人隊長は、十字架を見ていた。ヨハネ自身、墓に残された亜麻布を見て初めて信じた。トマスに至っては、傷口に手を入れてみるまで信じなかった。
しかし、ここで、この時にすでに、主イエスの言葉だけで、信じた人がいる。ユダヤ人でも、ファリサイ派でも、信じた人は救われる。幸いである。
信じるならば、わたしたちは自分の罪のうちに死ぬことはない。アーメン。
最後に、「わたしはある」という言葉の意味について、見ておこう。
ギリシャ語では「εγω ειμι エゴー・エイミー」。
これは出エジプト記に基づいた言葉だという説があり、新共同訳の「わたしはある」という訳は明らかにそれに基づいている。モーセから名前を尋ねられた神はこう答える。
「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだ」と。」(出エジプト3:14)
〔英語訳では「I am who I am.」だ。要するに「俺は俺だ」ではないか。神さまに名前などないのである。名前というのは他の同類のものからそのものを区別するための記号あるいは標識だが、神さまは同類のものなどないので、そもそも名前などないのである。名前を聞かれた神さまは、困ってしまって、「俺は俺だ」とお答えになるほかなかったものと思われる。〕 (解説・ケセン語訳の山浦玄嗣氏)
すべてのものを造られた神には名前などない。名前とは、造られた人間が、造られた他の物につけたものだ(創2:19)。同様に主イエスは、その父なる神から遣わされたものであり、天からのものだ。「あなたは誰なのか」と問われて「ナザレ村の大工のヨセフの息子のイエスである」と答えられるようなものではない。父なる神の子なのだから。
そしてこのことを信じることが、大切なのだ。なぜなら、ふつうの罪ある人間が十字架にかかったとしても、罪を赦す力は生まれないからだ。神の子である方が、もともと罪がなかったにも関わらず、私たちの罪を背負ってあがなってくださった。
だから私たちの罪は赦された。そして、罪の結果である死から救われた。
主イエスは父と共に「あるもの」つまり「神の子・メシア」ということを信じないなら、自分の罪のうちに死ぬ。しかし、信じるならば、罪のうちに死ぬことはない。
赦されたと信じる者は赦される。しかし、赦されたと信じない者は赦されない。考えてみれば、当然のことだ。信じない者ではなく、信じる者となりたい。アーメン。