ヨハネによる福音書8:1-11
7:53以下、本日の箇所は[ ]でくくられている。古い写本にはこの箇所がなく、後の時代の写本には登場しているため、このような記載となっている。
この場面は、恐らく主イエスの受難前、「エルサレム入城」の後である。主イエスは昼間に神殿で教え、夜にはオリブ山で弟子たちと共に寝泊まりし、ゲッセマネの園で祈られた。そして「朝早く、再び」(2節)神殿で教えられたのである。そこに集う「民衆」(2節)は、主イエスのエルサレム入りを歓迎し、主イエスの教えと言葉を慕い求めていた。すると「そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々」(3節)がやってきた。「律法」とは「神がモーセを通して与えた戒め」であり、その「戒め」を守ることにより、ユダヤ人たちは神に対して真実に生きる社会を形成していくことができると受け止めていた。ユダヤ人社会において人々が「律法」に従って歩むことにより、「神の民」として生きる彼らの社会は守られていく。そのための指導に当たったのが「律法学者」であり、「律法」を守るのに熱心であったのが「ファリサイ派」の人々であった。
彼らは「姦通の現場で捕らえられた女」(3節)を引き出してきた。「十戒」の中に「姦淫してはならない」(出エジプト20:14)という戒めがある。姦淫を犯した者はユダヤ人社会において、通常はユダヤ人の最高議会において裁かれる。ローマは宗教的な事柄に関してそれぞれの属州における自由を認めていたからである。しかし、そこで有罪の判決がくだされたからといって、勝手に石打ちの死刑を執行することができないというジレンマがあった。ローマが処刑の権限を持っているからである。
律法学者やファリサイ派の人々にとって主イエスは「律法違反者」であった。それはとりもなおさず「ユダヤ人社会を壊す」存在ということである。30歳そこそこの若い男に大勢の人々が群れをなしてついて行き、その教えを聞こうとしている状況に、ユダヤの指導者たちは危機感をおぼえた。何とかこの男の矛盾を突きたい、そのような動機から、彼らはこの女性を主イエスのもとに引き出してきた。
「姦淫」とは「夫婦の交わりを壊す」罪である。「夫婦」とは人間関係において最も基本的で中心的な関係である。そのような「最も近くにいる隣人」である「夫婦」が一緒に生きていく中には良いこともあるし大変なこともある。関係の薄い他者とは行き違いや摩擦も生じないからである。そして神が結び合わせた「夫婦」という共に生きる関係を壊すのが「姦淫」である。それは今日においても変わらない「神の戒め」である。ユダヤの律法社会においては特に厳しく処罰されるべき罪であった。そのことについて「あなたはどうお考えになりますか」(5節)と彼らは主イエスに尋ねた。彼らは本当に主イエスの考えを聞きたかったのではなく、なんとか「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」(6節)。「あなたはモーセの律法に従う人ですか、それなら、この女を石で打ち殺せとあなたも言いますか」、彼らはそう問うた。もしも主イエスが「モーセの律法に従い、この女を石で打ち殺せ」と言ったなら、主イエスは「ローマに許可されていない処刑を命ずる者」としてローマに対する反逆者としても訴えることができる。しかし、主イエスが日頃から律法に忠実ではなく、人を生かし、罪人と呼ばれる人々の仲間となられている様子を彼らは知っていた。主イエスは「殺してはならない」と言うかもしれないと、彼らは予測できた。そうであったなら、「神の与えた律法に従わない、神への反逆者」として、信仰を大切にするユダヤ社会の中で主イエスを人々から引き離し、「この男はユダヤ人社会を壊す不届き者だ」と訴えることができる。どちらに転んでもいい。彼らは意気揚々と主イエスに迫ったことであろう。
ところが主イエスは「かがみ込み、指で地面に何か書き始められた」(6節)。主イエスは何を考えておられたのであろうか。この姿を我々はどのように見るであろうか。他人を裁きながら自分自身の無慈悲さに気づかない「罪」を主イエスは見ておられたのであろう。そして主イエスは「あなたたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)と言われた。「自分は姦淫も犯していないし、安息日も遵守している」という人はいたであろう。しかし今まで他人の罪ばかり見ていた者がひとたび自分の内側に目を向ける時、そこで「自分に罪はない」と言える者はいなかった。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」しまったのである(9節)。『文語訳聖書』ではこの箇所を「良心に咎めて」という表現を用いて意訳している。「年長者から始まって」とあるのが興味深い。人間は長く生きていけばいくほど、自分の醜さや罪といったものに思いあたる場面が増えていく。表面では正しい人間の顔をしているが、内面はどのようなものか、人間は年をとればとるほど分かるようになるのである。集まっていた人々は、主イエスの言葉に耐えることができないで、皆、主イエスから逃げてしまった。そして「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(9節)。
主イエスは彼女に「わたしもあなたを罪に定めない」(11節)と言われた。罪を罰することのできる権威を持っておられる主イエスが、このように罪の赦しを宣言された。そして続けて「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われた。主イエスは彼女を愛し、もう一度新しく生かすために罪を赦されたのである。そのような赦しの愛に応えて新しい生き方へと促すのが、この「行きなさい」という言葉である。主イエスの「赦し」はその場限りで終わるものではなく、赦された人を新しい生き方へと促す。そしてこの「赦し」の言葉は主イエスの生涯、とりわけ主イエスの十字架の死に裏付けられていることを我々は知ることができる。彼女の罪を赦すために、主イエスはご自分の体を裂き、血を流された。主イエスの「赦し」とは、「どんな罪でも犯していいよ、何でも水に流すよ」ということではない。「罪」それ自体には必ず「神の裁き」がくだる。その「裁き」を一身に引き受けた上で、主イエスは「赦し」を宣言してくださるのである。ご自身の命をささげてまでも我々を赦し生かそうとする主イエスの愛を仰ぎ見ることがなければ、「罪の赦し」は安直なものとしてしか捉えられない。パウロは「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」と書いている(Ⅱコリ5:21)。「神の義を得る」とは、「神との正しい関係」、すなわち罪赦されて神を「父よ」と呼べる関係に入れられることである。主イエスの十字架を通して表わされた神の赦しと救いをおぼえたい。
聖書に「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3:12-13)という言葉がある。「赦す」とは「ゆるやかにする」ことである。我々は互いに大目に見たり見られたりしなければ一緒に生きていけない存在である。「大目に見ること」が「赦し合うこと」であり、そのことが常に我々に問われている。その大前提には「まず神が主イエスによってわたしを赦してくださったのだから」ということがある。その愛の大きさをおぼえ、共に生きる生活に生かしたい。