ヨハネによる福音書 7:10-24
ユダヤ人の三大祭の一つである「仮庵祭」の折には、大勢の人々がエルサレム神殿へやってくる。前回学んだように、主イエスの兄弟たちは、このような機会に「こういうことをしているからには、自分を世にはっきりと示しなさい」(7:4)と勧めた。自分が「メシア」であることを示す格好の機会ではないか、自分を売り込むチャンスではないか、と言うのである。しかし、そのような中で主イエスは「わたしの時はまだ来ていない」(7:6)と答えられた。
「しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた」(10節)とあるように、結局主イエスも仮庵祭の時にエルサレムへ赴かれた。主イエスは、「兄弟たちに勧められたから」という理由でそれに従うことはされない。あくまでも「神が自分に与えられた時」に従って歩まれたのである。主イエスの兄弟たちは、近くにいながらイエスのことを知らなかったと言える。我々も、どんなに教会に来て主イエスの事を聞いていても、なかなか主イエスのことが分からない。「もっとこのようであったら信じることができるのに」と思うこともあるかも知れない。しかし、信仰の目は神の導きの中で本当に開かれていく。主イエスの十字架と復活の後、この兄弟たちは初代教会のメンバーにされていった。神の備えられた時に、聖霊の導きの中で、後に彼らにも信仰が与えられたのである。また我々の目には、教会で求道されている方々が既に主イエスに近いように見えることがある。しかし、一人一人に信仰が与えられるには、それぞれに神の「時」がある。教会では、その「時」のために祈っていくことが大切である。
「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、『あの男はどこにいるのか』と言っていた」(11節)。ここで言われている「ユダヤ人」とは、ユダヤの宗教的・社会的指導者たちのことである。我々は既に5章において「安息日の癒し」の記事を学んできた。当時、安息日に労働することは禁止されていたにも関わらず、主イエスは病気の癒しのわざを行われた。それはユダヤの宗教指導者の目には「安息日の規定違反」「ユダヤ社会に対する反抗」「ユダヤ社会を指導する自分たちへの反抗」と映ったのである。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった」(5:18)。
「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた」(12節)。この「群衆」は「ユダヤの人々」を指す。「群衆」というものは、時の話題の人物についてあれこれと評価し、実に気まぐれな噂話をする。そこには確固とした自分の考えというよりは、「皆がこう言ってるのだから、そうなのだろう」という思いがある。「群衆」は、主イエスがエルサレムに入られる時、「この人こそメシヤだ」と喜びをもって迎えたにもかかわらず、数日後には「十字架につけろ」と叫んだ。このようにその時の流れや空気に押し流されていく人々の群れを「群衆」と言う。「群衆」は主イエスについて「良い人だ」「いや、群衆を惑わしている」などとささやきあった(12節)。しかし、「ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」(13節)。ここにもまた「群衆」というものの性格があらわれている。「群衆」は社会における権威者や指導者を恐れ、物が言えなくなってしまうのである。
主イエスは聖書について教え始められた。すると人々は驚き、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言った(15節)。「マタイによる福音書」では主イエスがいわゆる「山上の垂訓」をお話しになったのを聞いて「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と伝えている(マタイ7:28-29)。「律法学者」はあくまでも聖書を説き明かし、律法を生活に当てはめて指導をする。主イエスはただ「聖書を良く知っている」という語り方ではなく、権威をもって御言葉を語られた。しかし当時の常識から言えば、このように聖書の教えを語る者とは、やはりしかるべき学校に行くか、あるいは有名な学者の門下に入り、ある期間徹底的に律法を学んだ「律法学者」である。そのため、主イエスの言葉を聞いた人々の中には驚きと疑心が湧いた。「この話は本物なのだろうか」「ちゃんと立派な先生のもとで学んだのなら権威があるかも知れないが、学歴も資格もないこの人の語っているこれらのことは、本当に神の言葉なのだろうか」、人々は疑惑をもって反応した。
しかし主イエスが語られる教えの権威は「出身校」「門下」というものに由来するのではない。「わたしをお遣わしになった方」(16節)である父なる神が主イエスの教えの根拠であり源なのである。ご自身の言葉に疑念を持つ人々に対し、主イエスは「神の御心が何であるかを本当に知っている者」「御心を行おうとする者」にはご自身の言葉がどこから来たものか分かるということを指摘された。そして「律法」に関する問答が続く。
当時のユダヤ社会においては、モーセを通して与えられた「神の律法を守ること」が「神に従うこと」であり、そのことを通してユダヤ人社会が「神の民」として生きているという固い信念があった。しかし主イエスは、ユダヤ人たちが「律法」を懸命に守ろうとしているが、その主旨が間違っているということを指摘された。ユダヤ人たちは「律法」の本当の主旨に注目することなく、字面に縛られていた。そして「律法」を基準にして人を裁き、人を社会から排除した。「律法」の主旨とは、「神は人を愛し、人を生かし、人を救おうとされる」ということである。そのような神の御心を主イエスは語り続けられた。
「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める」(18節)。しかし「自分をお遣わしになった方」の召しに従い、その方の御心に従って語る者は、自分の栄誉や名声を求めない。ひたすら「自分をお遣わしになった方の栄光を求める」(18節)。我々キリスト者が、とりわけ伝道者が神の言葉を語る時、自分の名声を求めるのか、そうではなく徹底して神の栄光をあらわすために語り続けるのか、そのことは問われ続ける。日本社会において「牧師」職にこれといった名誉はないが、それでもやはり、或るひとつのグループの「権威」になろうとしてしまう誘惑は絶えずある。「伝道者」「牧師」「説教者」に社会的ステイタスが与えられるような社会では、なおさらそのような誘惑は大きいことであろう。そのような中でも、「神の栄光のために仕える」ということがしっかり踏まえられなければならない。教会が主イエスの福音を伝えるのも、自分のためではなく、神の栄光をあらわすために他ならない。「神から遣わされ、神から託されたわざをなす」ということでないかぎり、教会における働きもまた、「自分の栄誉を求めるわざ」になってしまう。我々の身近にもそのような誘惑があるということをおぼえたい。
ユダヤ人の指導者たちは主イエスを排除しようとしている。主イエスが安息日に病人を癒し、安息日の律法を破ったからである。主イエスは「あなたたちはだれもその律法を守らない」(19節)と言われた。彼らは自分たち自身が「律法」を守っていると自負していた。しかし、「律法」を通して示された神の御心は守られていない、そのことを主イエスは指摘されたのである。たとえ安息日であろうと、救いと癒しを求める者がいれば、その人を救うことが神の御心なのである。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)。安息日の規定に縛られて人が生きるのではなく、人が生かされるために安息日が与えられた。そしてご自身について「人の子は安息日の主でもある」(マルコ2:28)と語られ、神の御心である「愛」に生き抜かれた方こそ、主イエスである。「律法を守る」とは「愛することに生きること」である。そのことを常におぼえたい。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)と主イエスは言われた。我々は信仰によって義とされ、神に救いを頂く。しかし「律法」がどうでもよくなってしまったのではない。救われた神の子どもとして神の「律法」を喜び、その主旨である「愛すること」に生きるのがキリスト者である。
更に主イエスは「割礼」の問題を取り上げて具体的に語られた。彼らは生まれた男子の生後八日目がたまたま安息日であっても、「安息日にも割礼を施している」(22節)。「モーセの律法を破らないように」(23節)するためである。「安息日には何も労働をしてはならない」と言っているはずであるが、「体の一部に手術を施す」ということは安息日にも行っている。しかし「わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか」(23節)、なぜご自分に怒りをおぼえ、排除し、殺そうとするのか、と主イエスは反論された。
「安息日は礼拝する日であるから、仕事を中断する」というのが、本来の安息日の主旨である。しかし字面だけにこだわり、律法学者が「安息日に労働を禁止する」という規定を細かく定めた(ex.,「安息日にはこれ以上の距離を歩いてはならない」)。字面だけに固執し、「律法」の本当に大事なものを見落としてしまっている在り方を主イエスは問題にされた。そして、むしろ安息日に困っている人がいるならそれを助けることは決して「律法」を破ることではないと応えられたのである。「律法」の主旨は、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)、「「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)ということに尽きる。
ユダヤ人たちは何故そのことに気付かず、「律法」の字面にこだわったのであろうか。我々も同じような誘惑に陥らないよう、神の御心の大事なところを受け止めていきたい。