本日の箇所から、「主の晩餐」について学びたい。この礼典は「主の晩餐」「聖餐」などと呼ばれるものであるが、「このように呼ばなければならない」と用語の問題に固執することより、大切なことはその内容である。バプテスト教会で多く用いられる「主の晩餐」という呼称は聖書(Ⅰコリント11:20)からきている。また他の多くの教派で用いられている「聖餐」とは「聖なる共同体」(Holy Communion)に由来する呼称であり、それが「教会」というものを表現する礼典なのだということを明確にするものである。
現在の日本バプテスト連盟は1947年に日本基督教団を離脱し16の教会伝道所により結成された。当時の指導者たちは連盟の独自性を打ち出すため、言葉にこだわるきらいがあった。礼典の名称だけでなく、例えば、「別帳会員」を「他行会員」、あるいは「聖」という語を忌避して「聖日」を「主日」と呼ぶ。「聖」という語を忌避がいわゆる「聖俗二元論」に対する「否」であるかぎり正しいが、聖書には「聖日」(イザヤ58:13)や「聖徒」(ex., Ⅱコリント1:1口語訳、新共同訳では「聖なる者たち」)という語がある。ここではコリント教会の人々が人格的に完全で清らかだから「聖徒」と呼ばれたのではなく、彼らが「神のもの」とされているという意味で「聖徒」と呼ばれたのである。このように、呼称に目くじらを立てるのではなく、その呼称の表わす意味内容を聖書から問うていくのが「バプテスト主義」である。バプテストの先達は周囲の批判に直面した際、自らの立場をはっきり表明するために「信仰告白」を発表してきた。有名なものがいくつかあるが、第一項は必ず「聖書」であった。バプテストは「聖書の信仰」に立つ。これまで教会が大切に受け継いできた伝承も大切であるが、「聖書から聴いていくことを第一にしよう」と主張するのである。
いずれにせよ「主の晩餐」についても、自己の理解を絶対化して他の理解を否定することは禁物である。聖書に聴きつつ常に互いに吟味し合うことこそが大切なのである。「主の晩餐」という同じ呼称を用いていたとしてもその理解が異なるということがある。当教会の理解と比較するなら、その例として「主の晩餐」を信徒であるなしにかかわらずすべての人に開くという方式がある。その聖書的根拠としては「主イエスが罪人と共に食事をした」ということが挙げられる。この場合の「罪人」とは「律法を守れない者」のことである。彼らは経済的あるいは身体的、職業上の理由により「律法」を守ることができず、ユダヤ社会からははじき出された存在となっていた。そのような人々と主イエスは共に生活をし、食事をされた。直前の「五千人の供食」の場面においても、貧しい人々は生活を回復してくれる指導者を求め、主イエスの後を追いかけてきた。そして主イエスは彼らを深く憐れまれた。聖書には、貧しく虐げられた者たちの痛み・苦しみ・怒りに共感して生活された主イエスの事実が記されている。「主イエスはそのような人々にパンを分け与えられたではないか」ということが、「主の晩餐」を信徒であるなしにかかわらずすべての人に開くという方式の根拠となっている。
従来、一般的に「主の晩餐」の聖書的根拠は「最後の晩餐」(マタイ26:26-30、マルコ14:22-26、ルカ22:15-20、Ⅰコリント11:23-25)にあるとされてきた。一方、近年の聖書学の成果の中で、主イエスの「供食」の場面の所作(ex., ルカ9:16「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」)が「主の晩餐」の所作に通じているということが言われるようになり、そこに根拠を置いた上で「誰でも差別しないで主の晩餐にあずかって頂きましょう」という形式が出てきたと思われる。また、そこには神学的な背景のあることが見逃せない。ひとつには従来のキリスト教や教会に対する批判がその背景にある。特に欧米などで、クリスチャンになることで市民権を得られるかのような雰囲気があったり、教会が社会の中でステイタスや権力を持ち始めたりすると、「キリスト教会は内向きではないか、主イエスの御心に適う行動をしていないのではないか」という問いが投げかけられるようになる。そのような問いを発する人々にとって「神の救いのわざ」とは、格差社会の中で貧しさを強いられ、仕事を奪われ、しょうがいのために不利な立場に置かれた「抑圧された人々」の痛み・苦しみ・怒りを共感した主イエスの歩みに従って、そのような人々を「抑圧から解放すること」である。彼らにとって「宣教」とは、「教会が福音を伝える」ということではない。人々を抑圧から解放する主イエスの働きに仕えていくことが教会の働きである。彼らにとって「主イエスの十字架」は「罪の贖い」を必ずしも意味しない。主イエスの十字架の死は、この世においては「権力から抹殺される悲惨な死」であった。しかしその悲惨な死の中にこそ神の御心が表われており、永遠に変わらない「神の肯定」が十字架上で逆説的に語られていると言う。このような考え方においてはやはり「主の晩餐」も教会の中だけでのわざではなく、主イエスが様々な人々にパンを分けられたことを表現し継承するようなものでなければならない。
しかし、「ヨハネによる福音書」は、主イエスは大勢の人にパンを分け与えたがそれはあくまでも「命のパン」をあらわす「しるし」であると繰り返し語っている。ある注解書(NTD)は、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)とある「わたしが与えるパン」という部分を、「わたしがささげるパン」と訳している。ここでは「十字架の死に引き渡される贖罪の死」が前提になっているからである。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」(54節)という表現が「主の晩餐」を表わしているということは疑いの余地がない。その肉を食べ血を飲む者は、主の贖罪の恵みによって罪を赦され、「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(56節)という「永遠の命」にあずかるのである。そこに主イエスと食する者との深い関係があらわされ、またそこには、同じように主イエスの肉と血にあずかる者たちが主イエスによって結ばれていく「教会共同体」があらわされている。その意味において、「主の晩餐」は信仰者たちの教会共同体の食事である。主イエスは大勢の人々にパンを分け与える際にも、そのパンがあくまでも「天から与えられている命のパンを指し示すしるし」であることを語り、その「命のパン」であるご自身を「信じる」ことを何度も求められた(6:29、40)。信仰者たちの教会共同体の食事であるという理解に基づく「主の晩餐」は、決して信者でない人々を「差別」するのではなく「区別」するのである。そこでは主イエスを信じ従う者たちによって主イエスの命に養われる飲食がなされ、そこで主イエスに結ばれ、神の民として生きるということがあらわされていく。言うまでもなく、キリスト者と教会は主イエスの命に養われることで終わらない。「主の晩餐」にあずかる者たちは、神の民としてここから遣わされて神の御心を行うのである。「父よ、御心をなさせてください」という祈りをもって教会からそれぞれの場に遣わされ、主イエスの業(マタイ9:35-36参照)を行うのである。そういう意味で「教会」はキリスト者が「神の民」として遣わされていく「拠点」である。教会を、主から遣わされる拠点として理解せず、抑圧された人々を解放する業に仕えるだけだとすれば、ヒューマニズムとなり、教会はこの世に埋没してしまうであろう。我々は「キリストのからだ」としての教会に召され、結ばれているということにしっかりと信仰の根拠を置かなければならない。