ヨハネによる福音書6:34-40
本日の箇所においても、前回学んだ箇所で言われていることが繰り返し語られている。人々は主イエスから「天からのまことのパン」(32節)、「神のパン」(33節)の話を聞き、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節)と願った。そのような素晴らしい食糧がいつも与えられるのなら、もう飢えることを心配しなくても良くなるのではないかという思いから、彼らはこのように願ったのである。あの時、サマリアの女のした「主よ、渇くことがなように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(4:15)という要求と同様の要求であった。それに対して主イエスはここではっきりと「わたしが命のパンである」(35節)と宣言された。「ヨハネによる福音書」の中で、主イエスの「わたしは~である」という明確な宣言の言葉は7回登場する(ex., 15:1「ぶどうの木」、14:6「道、真理、命」)。ここで言われる「パン」とは、「肉体的な糧」を意味しない。それは主イエスのもとに来て信じることにより与えられる「命のパン」である。主イエスは、「来る」ことと「信じる」ことを求められた。
人々は既に主イエスの働きとその奇跡を「見ている」にもかかわらず、「信じない」(36節)。主イエスはそのような不信仰を責められた。本来ならば、奇跡にあずかった者は、そこにおいて示されたところの事柄(主イエスが神から遣わされたメシアである事)を信じ、ご自身のもとに来ることを主イエスは願っておられたのに、人々はそれを拒んだ。
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」(37節)という言葉はいわゆる「予定説(「救われる人と滅びる人は予め神によって定められている」という教え)」の根拠の一つとなっている。「救われ信仰が与えられるのは人間の努力ではなく神の一方的な選びと恵みによる」ということは、「ヨハネによる福音書」のみならず『新約聖書』全体を貫くメッセージである。37節の言葉も「神の一方的な選びと恵み」が強調されている。しかし、ここでは「予定説」ということを考えるよりも、これほどご自身を示されているのに信じない人々に対し、それでもなお父の御旨によって選ばれ信じる者が起こされることを期待しておられる主イエスの言葉であると受け取ることができる。先立って憐れみと恵みをもって救いたもう神のイニシアティヴは強調されるべきである。しかし、「個々人が『救われる』か『滅びる』かは既に決まっているのだ」ということではなく、神の側の「救おう」とされる愛や恵みを強調する言葉として受け止めたい。
主イエスは「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(37節)と言われた。この「追い出す」とは「外に投げ捨てる」というニュアンスの語である。ご自分を信じてその御許に来る者はどんなことがあってもご自分から引き裂かれることはない、死も終わりの日の裁きの時も信じる者たちがご自身のもとから投げ捨てられることは決してないという、主イエスの強い約束が語られている。
続く「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(38節)という言葉は、父なる神と主イエスが意志においても全く一体であることを語っている。これもまた、聖書全体が懸命に語るメッセージである。では「父なる神の御心」とは何か。それは「イエス・キリストを信じる者が永遠の命を得ること」であり、その「永遠の命」を与えることが父なる神の意志である。神はその独り子をお与えになった。まさに神であられた方がそれに固執せず人間になられ、我々の内に来られた。そこに神の愛が豊かに表われている。十字架の死による贖いにより、罪に死すべき我々が終わりの日の裁きにおいてもその罪を赦され、永遠の命のうちに復活させられる。神がひとりひとりに与えようとしておられるのはこの「永遠の命」であり、「永遠の命」の「パン」がご自身であると主イエスは宣言された。「永遠の命」とは「神と共にある命」「神と結ばれた命」である。神が「インマヌエル」(マタイ1:23)と呼ばれる御子をこの世に遣わされたのは、我々が神と共にある命を得るためであった。「永遠の命」は今既に与えられているが、地上の人生を超えた彼方において完成する。信じる者を「終わりの日に復活させること」が神の御心なのである(39節)。
39節で語られているのは「父なる神が御子である主イエスに求めておられること」であるが、続く40節で語られているのは、「神が我々に求めておられること」である。それは、「子を見て信じる」ことであり、「子を見て信じる者」が「皆永遠の命を得ること」である(40節)。原文で36節の「見る」と40節の「見る」とでは異なる語が用いられている。36節の「見る」は単純に視覚的な事柄であるが、40節の「見る」は「内なるものを見抜く」という意味である。我々は視覚的に主イエスを「見る」ことができない。しかし聖書を通し、主イエスを通して「この方はどういう方であるか」ということを知り、信じることができる。「子を見て信じる」(40節)という順序は、今も我々に与えられているのである。