ヨハネによる福音書4:43-54
主イエスはサマリアに2日滞在され、その後、北に向かって再びガリラヤへと足を進められた(43節)。ガリラヤは主イエスの故郷であり、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」(44節)という主イエスの言葉が挿入されている。実際、他の福音書においては主イエスがガリラヤのナザレで御言葉を語られた時に人々が素直に受け入れなかった様子が描かれている(マタイ13:57、マルコ6:4、ルカ4:24)。しかし本日の箇所では、主イエスがガリラヤで歓迎された様子が描かれている(45節)。なぜなら既にガリラヤの人々は「エルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」(45節)。主イエスがそこで語られ、不思議なわざをなされたために、主イエスの名は広まり、人々はその不思議なわざを「見て」信じた。しかし何かを「見て」信じるということは、自分の判断が「信じるか信じないか」を決める主体になっており、もしもそこに自分の期待したものが見いだせなくなると途端に「信じない」という判断へと変わってしまう。主イエスはそのような信じ方に否定的であり、主イエスの言葉を「聞いて」信じることを求められた。パウロも書簡の中で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と語っている(ローマ10:17)。
主イエスがカナの町に入られた時、「王の役人」(46節)に出会われた。ヘロデ・アンティパスに仕えるこの役人は、僕たちを従えているところからして高い地位にある人物だったのであろう。そして彼の息子は瀕死の病の床にあった(47節)。愛する子がそのような状況に置かれ、親であるこの役人の苦しみはいかばかりであったろうか。その時、役人は主イエスがガリラヤに来られていることを耳にした。そして息子のために自らの地位や体面をかなぐり捨てて、主イエスのもとに駆け付け、「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるようにと頼んだ」(47節)。原語には「繰り返し頼んだ」というニュアンスが含まれているように、この役人はプライドを捨て、他人からどう見られようが繰り返し繰り返し、主イエスに願ったのである。
それに対して主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)と言われた。「ヨハネによる福音書」では「奇蹟」のことを「しるし」と表現する。水をぶどう酒に変えることも病気を癒すことも主イエスはおできになる。しかし、そのような「しるし」そのものではなく、それらが指し示すものこそが大切なのである。ここで主イエスは「あなたがたは」と語りかけられた。この役人だけでなく、不思議な奇跡を見てみたいと思っている人々に向けて語られている言葉である。
主イエスの拒絶ともとれる言葉を前に、それでも役人は「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(49節)としきりに願い続けた。そして、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)という主イエスの言葉を受け、彼は「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)。この「帰りなさい」という言葉には「信じて歩み始めなさい」という意味が込められている。そして彼は「見てから信じる」のではなく「聞いて信じる」者として歩み出していった。我々もまた、「主イエスが自分の期待するような何事かをされたから、それを見て信じた」ということではなく、主イエスの言葉を聞き、信じて歩き出していく中で、主イエスのわざを見ることができる。
主イエスは、まだ彼の息子が亡くなったわけでもないのに、「あなたの息子は助かる」ではなく、「あなたの息子は生きる」(50節)と言われた。主イエスのなさるすべての「しるし」は、主イエスの「死と復活」にあずかる救い、永遠の命の「しるし」なのである。「ヨハネによる福音書」では、そのような「救い」「永遠の命」につながる文脈の中で「生きる」「命」という事柄を語る時、いわゆる生物学的な・肉体の「命」を指す「ビオス」とは区別して、「ゾーエー」という言葉を用いている。主イエスは「しるし」を通して「わたしこそが命だ」と示してくださっているのである(cf., ヨハネ5:24)。
「あなたの息子は生きる」という言葉が語られるのと、その実現は同時であった(53節)。そして役人はその事実を後で知った。我々は祈る時、「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」(マルコ11:24、口語訳)と教えられている。しかし、それが「かなえられた」と知るのはこの役人と同じように、後になってからである。神は常に我々の祈りを聞いてくださり、神の御心にかなう形で応えてくださる。我々自身が祈り求めたことがそのまま実現するのではないかも知れない。しかし、我々の願いや思いを超えて、神は最善をなしてくださる。我々はそのことを信仰生活の歩みの中で何度となく経験することができる。また、そのことを信じて祈り続けていきたい。