マルコによる福音書16:9-11
本来の「マルコによる福音書」は16章8節で終わっており、それ以降は後代に書き加えられた文書であるということが定説になっている。9節以下の部分は最も古い「マルコによる福音書」の写本には記されておらず、140~150年頃の写本に記されたものである。
本日の箇所には主イエスがマグダラのマリアにご自身を「現わされた」(9節)ことが記されている。これは8節までにはない表現であり、恐らく「ヨハネによる福音書」が参照された上で付加されたのであろう(cf., ヨハネ20:11-18)。直前の「復活」の場面で重要なのは「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(16:6)という言葉であった。ここで言う「復活」とは「起き上がらされた」という受身の意味を持つ言葉であり、主イエスは神によって復活させられたために墓が空であるということが語られていく。しかしその出来ごとに出会った女性たちは「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)。彼女たちは主イエスのご遺体に油を塗るという目的のために参じてきたにもかかわらず、そこにご遺体がなかったということへの驚きもあったであろう。しかしそれ以上に、「復活」という出来事が我々にとって信じられない異様なことであるということを、この女性たちの振る舞いから確認することができる。
そして復活の主イエスはマグダラのマリアに、そして弟子たちにご自身を「現わされた」。ある人々は、この「顕現」の出来ごとについて「主イエスが幻として現われた」と解釈する。やはり人間にとって「復活」ということを文字通り信じるということは困難であり、弟子たちが以前に強い印象を受けていたイエスという人物の想い出が、ある時「幻」のように浮かび上がったのだという。そのような解釈も可能であろうが、一方、「共通の幻」というものが多くの人々に同じように浮かび上がるということは考えにくい。主イエスがご自身を「現わされた」のは、特定の少数の人にだけではなかった。マグダラのマリアに「現わされ」、他の弟子たちに「現わされ」、更にパウロは非常に多くの弟子たちの前に主イエスが現われたことを語る(Ⅰコリント15:1-11)。
復活の主イエスと出会った人々は、「主イエスが死人の中からムクムクと立ちあがってくる」場面に出会ったのではなく、ガリラヤでみわざをなし、我々の罪の赦しのために十字架で殺され、そして復活し、あの時と同じように生きて働いておられる同じ主イエスと出会った。そのような出会いの中で、キリスト教会の信仰が始まっていった。そのような主イエスとの出会いがなければ、キリスト教の信仰は始まらなかった。復活のすぐ後に主イエスに出会った人々だけではなく、福音書記者たちにもそれぞれ、主イエスとの霊的な出会いがあった。それを確信することで彼らもまた「復活の証人」とされていった。「復活」という出来事が単なる歴史的な出来ごとであったならば、それはその場限りの出来ごとということで終わっていたかも知れない。しかし、主イエスは今もなお生きてそのみわざをなし、罪を赦し神の愛の中に迎え入れてくださる方として、今も我々に生きて出会ってくださる方なのである。
主イエスが最初にご自身をあらわされた「マグダラのマリア」について、本日の箇所では「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」(9節)と紹介している。主イエスがまず復活のご自身を現わされた人は、「苦しみ、惨めに病んでいた人」であり「主イエスによって生きるようにして頂いた人」であった。主イエスは「健康な人」「正しい人」ではなく、「病んで罪を知り、苦しむ人」にまずご自身を現わされたのである。
復活の主イエスに出会ったマグダラのマリアは、「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」(10節)。泣き悲しむ人々のところに「主イエスは生きておられる」という喜びのメッセージが伝えられていく。しかし、それを聞いた者たちは「イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」(11節)。復活の主イエスの顕現に出会った者の証言を聞いて信じるように求められた者たちは、信じることができなかった。彼らの疑いと不信とが今日の箇所では強調されている。十字架で死んだ主イエスが死からよみがえったことなど、いつの時代でも人間は信じることができない。もし、我々が「主イエスの復活」を信じることができるとすれば、その「復活信仰」自体が「奇跡」である。「自分が復活ということを納得して了承する」というようなものではなく、「復活」ということは神からの一方的な導きによって信じることができるようにされる。我々の側の疑念にもかかわらず、不信仰を信仰へと変える神のみわざがそこに働くのである。
我々が聖書の言葉に出会い、そこから新しい人生が切り開かれたということは、そこに「復活の主イエス」が現われてくださったということである。そして「復活の主イエス」が今生きておられることを伝えることこそ「信仰」である。主イエスの顕現は、あの時代に特定の人々の前にのみ一回限り起こったことではない。我々が「信じる者」となる時、主イエスが生きて我々のうちに救いの御業を成してくださるという出来ごとが起こっていく。
この箇所は我々に問いかける。「あなたはどうですか」。マグダラのマリアの証言を聞く時、我々の信仰もまた問われてくる。復活の証言を信じることができないのは、人間としてのまっとうな反応である。それでも聖書は一貫して「聖書の証言を信じるか」と問いかけてくる。これは主イエスからの問いかけに他ならない。
主イエスは「週の初めの日の朝早く、復活」(9節)された。それゆえに、主イエスをキリストと信じる者たちは日曜日に礼拝をささげるようになった。「安息日遵守」ということが厳しく言われる時代、別の日に礼拝をささげることなど考えられなかった。しかしそのように日曜の礼拝を始めた群れが、現在に至るまで残されてきた。これは考えられない奇跡である。我々は聖書が語る言葉に触れ、聖霊の先立つ恵みに導かれて信仰を頂き、そこで生かされるようになる。主イエスは今も、病や罪の中で苦しむ我々に現われてくださる。