マルコによる福音書14:66-72
前回はユダヤの大祭司による尋問の場面を学んだ。彼らは主イエスを死刑に処するにあたり、法廷の公式な裁判という手続きを経ているように仕組み、民衆の了解を得ようとした。この手続きには、人間の側からの「主イエスにおいて示された神の愛と御心の否定」が示されている。
死刑の決議の後、「ある者はイエスに唾を吐きかけ」た(65節)。これ以上の侮辱的な行為はない。またある者は「目隠しをしてこぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた」(65節)。「お前が預言者であるなら誰が殴っているのか言い当てられるだろう」という嘲りの言動である。人々は様々な形で主イエスを愚弄し象徴した。主イエスがその言葉とわざとにおいて表わそうとした神の救いについて人々が心を閉ざした状況が見て取れる。主イエスはご自身について明言された後、こうした法廷の茶番や人々の愚弄嘲笑を耐え忍ばれた。
さて、ペトロはいったん逃げ出したものの再び「下の中庭」(66節)に姿を現した。主イエスの身を案じ、また心の中に「このままで終わるはずはない」という思いがあったのかも知れない。ペトロは夜の闇に紛れて尋問の様子を見ていた。
すると「大祭司に仕える女中の一人」(66節)がそんなペトロに目を留め、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」(67節)と声をかけた。「イエス」とは当時のありふれた男性の名前であったので、「ナザレ出身のイエス」と呼ばれたのである。彼女はペトロに特段の敵意を持っていたというよりも、「そうではないかな?」という程度の軽い調子で声をかけたのではなかろうか。そのような声かけに対し、ペトロは無視を決め込み沈黙を守っていても良かった。しかし、ペトロは彼女の言葉に狼狽してしまう。そして「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」(68節)と繰り返し否定し、自分の狼狽を覆い隠そうとした。ある人はこの場面についてこのように解説した。この女中がもしペトロに対して「あなたもあの死刑囚の仲間、共犯者なのではないか」と明らかな敵意を持って声をかけたとしたら、ペトロは憤然と立ち向かったのではなかろうか。しかし、彼女の言葉は「一緒にいたでしょ?」という程度の実に軽いものであった。ちょっとした軽い言葉であったからこそ、ペトロは狼狽し、どんどん深みに陥ってしまったのかも知れない。
ペトロがこの場を逃れようとして「出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた」(68節)。夜明けの近い時間帯であることが分かる。するとあの女中は、逃れようとしたペトロの様子を見て、今度は周囲の人々に「この人は、あの人たちの仲間です」(69節)と言い募った。そこでペトロは「あの人のことは知らない、分からない」と再び打ち消さなければならなかった。ペトロは繰り返し主イエスを否んだ。ペトロは、法廷での尋問の様子を見ながら「もしかしたら何かが起こるかも知れない」という期待を抱いていたかも知れない。しかし、そのようなことは何も起こらず、主イエスの死刑は確定し、主イエスは侮辱を受けられた。何ら抵抗することもせずそのような扱いに身を任せておられる主イエスの不甲斐ない姿を見て、ペトロは「あの人の弟子である」ということを不名誉なことと感じたのかも知れない。
しばらくして、今度は居合わせた人々が「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」(70節)と言い始めた。マタイはこの様子について「言葉遣いでそれが分かる」と補足している(マタイ26:73)。繰り返し主イエスとの関係を否定するために発し続けたペトロの言葉はまさにガリラヤ訛りだったのである。ペトロには反論の余地がなくなってしまった。するとペトロは「呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」(71節)。いよいよペトロは自分の身にも危険が及ぶことを恐れた。主イエスは今、「ユダヤ人の王」「ローマへの反逆者」として罪を着せられた。その男の弟子であるということが判明してしまえば、自分も「反逆者の一味」としてローマに訴えられ、十字架刑に処せられてしまうかも知れない。最初は何の気もない軽い言葉に狼狽して主イエスを否定したペトロであったが、今や呪いの言葉すら口にしながら、神に対して「あの人は知らない」と誓うという深みに落ちていくしかなくなってしまった。
「するとすぐ、鶏が再び鳴いた」(72節)。ルカはこの場面で「主は振り向いてペトロを見つめた」(ルカ22:61)と記している。「ああ主のひとみ まなざしよ 三たびわが主を 否みたる よわきペトロを かえりみて ゆるすは誰ぞ 主ならずや」(『新生讃美歌』486番「ああ主のひとみ」2節)という歌詞はこの場面から来ている。実際にここでペトロが主イエスのまなざしに触れたかどうかは別としても、この時ペトロは「イエスが言われた言葉を思い出し」(72節)たのである。そしてその時、主イエスを裏切ってしまった自分の弱さ愚かさ、主イエスの前に犯した罪に気づかされ、ペトロは「いきなり泣きだした」(72節)。この時ペトロは、自分の弱さ愚かさを前もって良く知り、最初から受け入れてくださっていた主イエスの愛のまなざしに気づかされたのである。
「神が自分のことを全て知っておられる」という時、我々はどのように感じるであろうか。いたたまれない思いがするであろうか。しかし、我々は何か問題や欠点があったなら目ざとく指摘し咎めようと目を光らせている存在にではなく、本当に自分を愛しておられる神に「知られている」である。問題や欠点に満ちた自分をなお赦し、なお捉えようとしてくださる主イエスのまなざしに触れる時、「自分が知られている」ということはむしろ感謝すべきことなのである。
ペトロは主イエスの言葉によって自分の罪と弱さをあらわにさらされながらも、赦され受け入れられていることを思い出し、そのような主イエスに背いた罪、そしてそのような主イエスを恥じて関係を否定しようとした自分自身を恥じて涙した。このペトロの「裏切り」の物語は、すべての福音書に記されている。初代教会の中心人物であり、信仰の指導者であった人物の「主イエスに対する恥ずべき裏切り」が語られているのは驚くべきことである。恐らく、ペトロ自身がこの出来事を告白し語り続けたため、福音書に記されたのであろう。ペトロの信仰は、実はこの「裏切り」の上に成り立っている。「信仰」「主イエスとの関係を持つ」とは、「わたしは決して裏切りません、これから従っていきます、もう揺るがぬ決意が固まりました」と宣言して主イエスに従うことではない。主イエスとの真の関係は、人間的な決意や気負いによってではなく、主イエスの言葉で自分の罪や弱さを知ると同時に赦し慰めてくださっている主イエスの愛に気づかされたところから始まるのである。ペトロはこの涙の場面から、初めて真に主イエスとの関係を持つ者となった。この泣き崩れるペトロの姿の中にこそ、ペトロを捉え愛してやまない主イエスの愛が込められている。