マルコによる福音書14:32-42
今回の箇所は、主イエスがゲツセマネで祈られる場面である。「ゲツセマネという所」(32節)は、「オリーブ油を絞る」という意味の名前で、オリーブ山の中腹に位置しケデロンの谷を隔ててエルサレムを臨むことができる場所である。エルサレム入城以降、主イエスはそこを夜の祈りの場所としておられた(cf., ルカ22:39-)。この日も「ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われ」(33節)ゲツセマネへ来られた主イエスは、「ひどく恐れてもだえ始め」(33節)、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(34節)と言われた。この時が主イエスにとってどのような苦しみの時であったのかを我々は正確に知ることはできない。
主イエスは「アッバ、父よ」(36節)と神に呼びかけ祈りを始められた。「アッバ」とは主イエスが当時使っておられたアラム語であり、聖書の記述ではその意味を補足するために「父よ」と続けている。この語は子どもが父親を呼ぶ際に用いるものであり、神をこのように呼んだユダヤ人は後にも先にもいない。確かに主イエスは「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように弟子たちに教えられた(マタイ6:9-)。しかし、「神と主イエスとの関係」と「神と信仰者たちの関係」は区別されなければならない。「父なる神」と「子なるイエス」の関係は非常に特別で密接なものである。
主イエスは「この杯をわたしから取りのけてください」(36節)と祈られた。「杯」とは「苦しみの時」を指し、主イエスの死の時が近づいていることを予感させる。最も恐るべき十字架の死が主イエスの眼前に迫っている。そこにはもちろん、人間的な恐れもあったであろう。「神の子なのだから肉体の痛みや死など何も恐れる必要はない」ということではない。しかし主イエスはこの時、 更に別の恐れに捉えられ心を乱された。「神の子」である主イエスはまさに「父なる神」と全く一つの存在である。それにも関わらず、その関係が断ち切られようとしている。主イエスの心を捉えているのは「父なる神から捨てられることへの恐れ」に他ならない。
このように主イエスがゲツセマネで苦しみ祈られた意義を、我々はなかなか理解することができない。誰も、主イエスの立場に立つことができないからである。しかしこの場面からは、「主イエスの神に対する服従」の姿が大きく浮かび上がってくる。神の子である主イエスでさえ、地上では神の御心に従おうという服従を示された。この事は決して当然のことではない。父なる神と子なる主イエスの霊における交わりの中で、主イエスは機械的に「神に従う」のではなく、常に「自分自身が神に従う」ということを問い続けられた。ゲツセマネの祈りにおいても、主イエスは神に従おうとしながら同時に大きな恐れと苦しみを感じておられるのである。しかしその祈りの交わりの中で、主イエスは最後に「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)と祈られた。
主イエスは繰り返し「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた」(39節)。何度も祈られる姿にはその苦しみや恐れ悲しみが更に強く浮き彫りになっている。そしてその合間に弟子たちのところへ戻られると、弟子たちは眠っており、主イエスは「心は燃えても、肉体は弱い」(38節)と声をかけられた。この「心」という語は「霊」を表わすが、「聖霊」のことではなく、人間の内に与えられている「霊」のことである。神は人間をお造りになる時、「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2:7)とあるが、この「息」も「霊」であり、それは人間に「神を思い、神との関係・交わりを持つ」ようにさせる。弟子たちも主イエスとの関係を持ち、主イエスに従いたいという信仰的な願いは燃えていたかもしれない。しかし、精神を含めた人間性全体を指すところの「肉体」はあくまで弱い。主イエスとの関係の中で従おうとし「目を覚ましていなさい」と励まされながらも眠ってしまう人間の弱さを、主イエスはご存じの上で受け止めてくださるのである。三度目に戻ってこられた主イエスは「もうこれでいい」(41節)と言われた。ここには弱い弟子たちに対する主イエスの限りない同情が示されている。「時が来た」(41節)とは当然「十字架の死」の時である。主イエスはその「時」を受け止め、その「時」に向かって歩みだされた。
我々はこの「ゲツセマネの祈り」から何を学ぶことができるのであろうか。我々の人生には様々な苦しみがある。理由の分からない不条理な苦しみがある。使命を持ち、信仰をもって生きようとしながらも挫折し「もうやめてしまいたい」と思う時がある。信仰があるからといって苦しみがなくなるわけではなく、信仰者には信仰者の苦しみがあり、「どうしてですか」「どうしてわたしを見捨てるのですか」という嘆きと訴えを神にぶつける時がある。この絶えずある苦しみをどのように捉えるべきか。我々にとっては「苦しみを受ける用意ができている人生であるかどうか」ということが大切である。失望や苦しみに耐えさせるものは何か、死をも受け止め担わせるものは何か、それを見定めていくことが大切である。
神を信じ従っていても捨てられていくという悲しみの中で、主イエスはなお神に訴え祈られた。その祈りに対する天からの答えはここに記されていない。ただ、祈りの中で御自身を神に委ね、死を受け止めていかれた主イエスの姿があるのみである。なぜ神は主イエスを捨てられたのか。その答えはこの箇所にない。しかし、聖書全体はやはりこの問いに答えている。その答えは「復活」にある。「わたしは片時もあなたを捨てなかった」という神からの答えが「復活」である。死者を復活させ無から有を生み出す神を信じ、委ね、自分を賭けて生きる以外に、不条理なこの世の苦しみに失望せず立ち向かうすべはない。我々が全く希望を失う時、我々以上の試練と苦しみに遭われた主イエスが共にいてくださり「立て、行こう」(42節)と促してくださる。苦しみ、失望、孤独、敗北、それらは我々を主イエスから引き離すことができない。主イエスを通して、神はそのことを我々に語っておられる。