マルコによる福音書14:27-31
主イエスと弟子たちは最後の食事である「過越の食事」を終えた後、「賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」(26節)。本日の箇所は、オリーブ山へ向かう途上での出来事として描かれている。
主イエスはまず、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」(cf., ゼカリヤ13:7)を引用し、ご自身を「羊飼い」と理解された上で預言者の言葉がご自身において実現していることをお話しになった。事実、「羊飼い」である主イエスは打たれることとなる。捕らえられ、十字架につけられ、まさに「非業の死」「屈辱の死」を遂げられる。そしてその死を前に、今までの主イエスに対する弟子たちの信仰は挫折する。彼らはエルサレムから脱出し、その多くは自分たちの郷里であるガリラヤに逃げ帰っていった。
しかし、主イエスはそのようにご自身に躓き、散っていくであろう弟子たちの姿のみをここで語られたのではなく、続けて「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28節)と言われた。ご自身の十字架の死の先にある「復活」を語られた上で、「先にガリラヤへ行き、あなたがたを待っている」と更に約束されたのである。
しかし「あなたがたは皆わたしにつまずく」(27節)という主イエスの言葉を前に、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29節)と強くその決意を表明した。しかし主イエスは「あなたは、今日、今夜、鶏が三度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(30節)と応じられた。当時の感覚として一日は日没から始まる。夕食を終えてオリーブ山へ向かわんとされているこの場面は、日が沈み新しい一日が始まって既に夜半を過ぎたころと思われる。そして午前3~6時ころ、東の空が明るくなる時、「鶏が鳴く」。すなわち、「今日、今夜」というのは「あと数時間後」ということであり、ペトロは「わたしはつまずきません」と言った舌の根も乾かぬうちに三度主イエスを否むことになるのである。「知らない」という言葉は、「否定する」「捨てる」といった強いニュアンスを含む。主イエスとの関係を全く否定し、主イエスとの関係から全く逃げ出してしまうということである。
「あなたはわたしのことを『一切関係のない人だ』と否定するだろう」と主イエスに告げられ、ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31節)と力を込めて言い張った。ものすごい剣幕で自信の程を披瀝したのである。しかし実際は「自分は大丈夫だ」と確信し、主イエスの最も近くにいたはずのペトロが、脆くも挫折し、主イエスを否み、裏切っていく。主イエスの言葉は実現した。その時ペトロは、自分自身の不誠実さ、弱さ、主イエスに対する罪をあらわにされ、取り返しのつかない自分の言動にどんなに落ち込んだことであろう。深い底に投げ込まれたペトロを救うのは、ただ主イエスの言葉のみであった。それが既にこの場面で与えられているのである。「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28節)。この約束は、「十字架」という非業の死の前に躓き、主イエスとの関係を崩してしまった弟子たちを慰め立ち上がらせることになる。主イエスを否み逃げ去った弟子たちを先にガリラヤで待ち受け、彼らと出会ってくださった主イエスから、弟子たちは再び新しい出発を与えられたのである。弟子たちの信仰の自信や確信が崩される中でも、復活の約束はそこに先立っている。信仰の挫折を通してはじめて、そのような自分をなお受け止め立ち上がらせ、罪を赦して執りなしてくださる復活の主イエスによって、本物の信仰の歩みが始まっていくのである。主イエスを信じ従う信仰とは、「準備ができた、自信をもって生涯従っていける」という我々の側の自信や確信ではない。崩れやすい自分の弱さ、主イエスに従いたいと願いつつなお従いきれない自分の弱さ、それらを率直に認めつつ、そのような自分をなお助け執りなしてくださる主イエスにひたすら信頼するところに、信仰の生活がある。
この出来事が弟子たちにとってどれだけ印象的なものであったかということは、4つの福音書がすべてこの出来事を語り伝えているというところからも分かる。古代の神学者オリゲネスは「もし彼ら(福音書記者)が本当に真理を愛する者でなかったら、弟子たちが主イエスを否認したことや躓いたことを記さなかったであろう」と語った。福音書が記された時代に教会の偉大なリーダーと目されていたペトロについて、「主イエスを知らないと言った」「信仰が躓いた」などと記すことは、「本当に真理を愛する者」でなかったら不可能だったであろう。その「真理」とは、弱く罪を犯す者であるにも関わらず、受け止め、執りなし導く復活の主が今も生きておられるという「真理」である。ペトロもその「真理」に生かされ、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」(Ⅰペトロ5:6)と勧めた。「自分を低くしなさい」だけであるなら、ただの「道徳」である。しかしペトロは自分自身にそのようなことができなくとも、「神の力強い御手の下」であればそのように生きるようにされることを知っていたのである。