本日の箇所は「小黙示録」と呼ばれる箇所である。「黙示」文学とは、「世の終わり」に関する事柄について記された書物を指す。新約聖書には「ヨハネの黙示録」が、旧約聖書には「ダニエル書」が「黙示」文学のジャンルのものとして収録されている(なお、旧約聖書39巻には含まれなかった「黙示」の書として「エノク書」が良く知られている)。これらの書物は紀元前3年から紀元4年の間に書かれた。なぜそのような時期に「黙示」の書が書かれなければならなかったのであろうか。ソロモン王の死後、イスラエル統一王国は南北に分裂した。北イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアによって、南ユダ王国は紀元前587年にバビロニアによって滅ぼされた。いわゆる「バビロン捕囚」期は紀元前538年にペルシャによって終焉を迎える。しかし解放されたユダヤ人たちは独立の王国を形成することができず、ペルシャの支配下におかれ、政治的自由を持たなかった。そのような中でエズラの時代に「宗教改革」が行われる。そしてそれを機に『旧約聖書』が正典化・文書化されていく。その先に続く預言書は編まれなくなっていった。それに代わるものとして、「黙示」文学が登場するようになったのである。
「黙示」は「世の終わり」について教えるもので、世界の歴史を導く神の「秘密」の計画が、しばしば夢や幻を通した形で語られていく。そのため、そこに描かれる異常な光景や描写は普通に読んでも大変理解しづらい。しかしそこには隠された意味があり、それは解説者を通して人々に開示されていく類のものである。
エルサレム神殿で論争し、教え、語るべきことを語り、行うべきことを行った主イエスは、神殿から出て行かれた(1節)。その際、神殿の偉大さに感嘆した弟子たちの声に、主イエスは応えられた。エルサレム神殿はソロモン王の時代に建設され、ヘロデ大王の時代に再建に着手された。再建時の規模は、ソロモン王の時代の約二倍の大きさだったという。主イエスご自身も弟子たちを伴い神殿で礼拝をささげ、主イエスの復活・昇天後も弟子たちは神殿礼拝の生活を続けていた(cf.,使徒言行録2:46ほか)。偉大な神殿はユダヤ人たちの誇りであった。しかし、主イエスは「お参り信仰」の危うさを見て取っておられた。そして強い意志をもって「神殿の破壊」を予告されたのである。「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)。
弟子たちは、それがいつ起こるのか、前兆はあるのか不安になり主イエスに尋ねた(4節)。彼らは「神殿崩壊」を「世の終わりの大惨事」と理解したのである。そこで主イエスはまず、「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)と語り始められた。信仰を惑わせ、信仰から去らせようとする誘惑者の出現が、終末の最初の前兆である。「わたしがそれだ」(6節)と、自分こそが神であるかのように偽り惑わす者たちが現れ、そこには大きな混乱と信仰の迷いが生まれる。主イエスはそのような時にも「神との関係を正しく守るように」と警告してくださっているのである。続けて主イエスは「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない」(7節)と戒められた。人間同士の争いが「世の終わり」の時を決定することはできないからである。「そういうことは起こるに決まっている」(7節)とは、むしろ「起こらなければならない」という強い意志を含んだ主イエスの言葉である。それは人間の理解を超えた神の意志に基づく必然性を示すのである。いずれにせよ、「どんな騒ぎの中でも動転してはいけない」という主イエスからの勧告を受け取ることができる。
続く「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」(8節)という部分は、「イザヤ書」の引用である(19:2、24:17-20、14:30)。これらの自然界や社会秩序の乱れというものは、「黙示」文学に共通する「終末」の出来事である。しかしそれらは完全な「終わり」の事柄ではなく、むしろ「産みの苦しみの始まりである」(8節)と主イエスは語られ、その後に与えられる「喜び」を示唆された。
主イエスは「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(9節)と言われる。ここで主イエスが示される事柄は、まさに自分自身に降りかかってくるものであるということを、我々は受け止めなければならない。続く「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる」「わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」(9節)という部分は、その後使徒パウロの身に起こった苦難を想起させる。しかしそのような迫害は「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(10節)という神の強い意志のゆえに、主イエスの名のゆえに起こるものなのである。その時語るべき言葉について、我々は心配しなくても良い。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(11節)という主イエスの約束が与えられているからである。
我々の身にもまた、家庭内での葛藤(12節)、主イエスの名のゆえの迫害(13節)が降りかかるであろう。その時、我々は静かに「最後まで耐え忍ぶ」(13節)ことが求められている。主イエスを信じ従う信仰の生活は、「信じればすべての災難やトラブルがなくなる」という意味での「幸福宗教」の歩みではない。キリスト者は自らの十字架を負いつつ、信仰の歩みを進める。その中で、神は赦しと「神の国」を与えてくださるのである。