マルコによる福音書12:18-27
今日の箇所では主イエスに議論を挑む相手として「サドカイ派」の人々が登場する。彼らはユダヤ社会においては上流階級に位置付けられており、ヘロデ王にも近かった。世俗権力に迎合する中で、彼らは自らの政治力を得ていったのである。また彼らにはこの世の富も得ていた。また彼らは、宗教的にはユダヤ人たちの心の拠り所であったエルサレム神殿を管理し取り仕切る祭司階級の人々であった。そして彼らは「復活はない」という主張を持っていた(18節)。このところから、現代人に比して昔の人が「復活」を信じていたとは限らないということが分かる。この世で富んでいる彼らは現実主義であり、この世のことだけで満足であったので、「この世の先のこと」には否定的だったのである。
彼らは主イエスのもとにやってきて議論を挑み、「復活などあるわけがない」とアピールした(19~23節)。このような例話が挙げられる背景には「男系の家系を絶やさない」ための当時のしきたりがあった。
彼らの投げ掛けた疑問は大きく二つに分けられる。一つ目は「そもそも復活という現象などあるのか」という疑問である。二つ目は「復活があるならそれが具体的にどのような状況になることだと考えればよいのか」という疑問である。
主イエスは彼らに答え始められた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」(24節)。前述のとおり、サドカイ派は祭司階級にあったため、当然「神」のことも「聖書」のことも「知って」いた。しかし、それは「知識」としてのことであり、そのようなテーマを巡っての議論をすることは「知って」いたに過ぎない。このことは我々への問いかけでもある。主イエスは「あなたがたは聖書の言葉に本当に生きる力と希望を頂いているのか」と問いかけておられる。
そして主イエスは彼らの問いに聖書から答えられた。「モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてあるではないか」(26節)。ここでは「神はかつてユダヤ人の父祖たちの神であった」と過去形で語られていない。今も神は彼らの「神である」。神の前に一人一人生きているのだから、神は今なお彼らの「神である」と現在形で語られるのである。こう話された主イエスご自身、やがて復活され、復活の初穂となられ、我々の復活の保証となられた(cf., Ⅰコリ15:20)。
「神の力を知らない」と主イエスは語られたが、復活に大切なことは「神の力を信じるかどうか」ということである。天地を造られた全能の神は、今もこの世界をその手におさめてくださる力ある神である。人智を超えた神の力に対する信仰が、復活信仰である。我々に命を与え生かしめたもう神は、全能にして愛に富む神である。その方がこの復活を約束してくださっている。復活信仰は、この力ある神の約束に信頼できるかどうかにかかっている。
では復活したら、死後の世界で我々はどのようになるのであろうか。「復活した後に、この世の事柄と矛盾が生じるはずではないか」とサドカイ派の人々は問いかけている。それに対して主イエスは「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と答えられた(25節)。「復活の時」は「この世の終わりの時」である。そこには「神の国」が成就する。今も既に頂いている神との交わりが完全なものとなるのが「神の国」である。そして「神と隣人を愛せよ」という愛の成就するところが「神の国」である。そこではこの世のしきたりや秩序が終わり、そのようなものを越えた新しい秩序が支配するようになる。そして我々も、現在の在りようを越え、「神に近い者」にされる。この事情を「ヨハネの手紙Ⅰ」では「わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」と語っている(3:2)。いずれにしてもその様子は具体的に示されていない。しかし、その時には主イエスと神との交わりのような、一体であるような神との交わりが頂けるのである。
「ヨハネの黙示録」もまた、「新しい天と新しい地」について語っている(21:1)。この世はすべてではなく、必ず過ぎ去りゆくものである。しかし、キリスト者は決してこの世を否定したりこの世から逃避したりしない。この世の先への希望を持つがゆえに、今与えられている人生の歩みや今負わされている重荷を受け止めて生きることができるようになる。神がくださった約束と希望があるから、キリスト者はそのように生きることができる。「復活信仰に生きる」とはそのような生き方である。