マルコによる福音書11:20-26
前回、「いちじくの木」は「エルサレム神殿」を指し示していることを学んだ。今日の箇所は「あのいちじくの木が根元から枯れている」のを一行が目にしたところから始まっている(20節)。それは「エルサレム神殿」での礼拝が内実を伴わない儀式的な礼拝に終始していたことへの裁きを意味している。そして、この呪いと裁きは、同時に「動物犠牲の祭儀」の終わりを示すものでもあった。そして、礼拝はこの時から「全ての国の人」に開かれた場所にされた。
主イエスの十字架の贖いの恵みにより、我々は神の前に罪赦され、神との正しい関係に入れられるようになった。我々が神を「父」として、その愛の中に生きるようにされた。「礼拝」は主イエスの十字架を仰ぎつつ、神に赦され愛されていることを喜ぶところである。そこではもちろん我々の「罪」が語られなければならない。「罪」とは「神に対する不信仰」であり、それを神は悲しまれる。そしてそのような「罪」の中にある者を、なおご自分の手の中に取り戻し、ご自分との関係に導こうと、救いのわざを継続され、御心により定められた時に、主イエスにより罪の赦しと贖いが成就した。「礼拝」とは、そのことをおぼえるところである。我々は信仰を頂いていてもなお不信仰な者であり続ける。「罪」をおかすたび、我々は神の前に悔い改めなければならない。しかし、「罪をおかしてしまう自分はだめだ」と自虐的になるのではなく、赦し愛してくださる神に喜んで「礼拝」をささげる者でありたい。
主イエスは「神を信じなさい」と言われた(22節)。「信仰」こそ、主イエスが我々に求めておられるものである。では、その「信仰」とは何か。まず、「信仰」とは「神を疑わず、ひたすら依り頼む」ことである。「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるならば、そのとおりになる」と主イエスは言われた(23節)。この『立ち上がって海に飛び込め』とは、当時のユダヤで「困難を取り除く」という意味で用いられていた慣用句であった。「そんなことはできっこない」と思えるような困難が取り除かれる、という意味である。信じて祈るならば、「そんなことはできっこない」と思えるような困難な問題は解決し、その問題に立ち向かい対処する力が与えられるのである。
「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」と主イエスは続けて言われた(24節)。我々は「願い求めるものは既に与えられている」ということを信じて祈る。神に愛され、神がどんな時にも味方となってくださり、すべてのことを益としてくださることを信じて祈る。神は様々なかたちで祈りに応えてくださることを、祈る者は信仰生活の経験から知ることができる。我々はどんなことでも祈ってよいのであり、祈りつつ、自ら最善を尽くすのである。
その祈りは、「神に愛され永遠の命が与えられているのだ」という信仰が前提となる。「祈り」は「信じ、期待する祈り」でなければならない。「祈りは希望を持たない儀式であってはならない」(バークレー)。「祈り」は「信仰の姿」である。「祈り」の中で我々は神のみわざを拝し、神に感謝を表わす。
また、「信仰の祈り」は「愛の実践の祈り」でなければならない。パウロは手紙の中で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と書いている(ガラテヤ5:6)。「立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」と主イエスは言われた(25節)。「神との関係の回復」は、同時に「隣人との関係の回復」でなければならない。そしてそのためには、まず祈らなければならない。恨みに思う者を赦し愛することは、「山が海に移る」ほどの大きな困難である。しかし、そのために「祈りなさい」と、主イエスは我々に語りかけてくださっている。