ヨハネによる福音書1:1-3
福音書それぞれに冒頭の言葉には特色がある。「ヨハネによる福音書」の冒頭は、非常にリズミカルな形式を踏みながら語り始められている。それはまた、初代教会あるいはこの福音書が記された共同体における「キリスト賛歌」「賛美歌」であるとも言うことができる。
「初めに言があった」(1節)とあるが、その「言」とは14節にあるように、イエス・キリストのことを指している。日本語の表記として「言葉」ではなく「言」となっているのは、指し示されている方が「人間の意志を伝達する道具」としての「言葉」ではないことを表している。また、「初め」とはどの時点のことであろうか。「創世記」の冒頭で語られた「初め」(1:1)は、「神の創造の開始」「神のみわざの始まり」としての「初め」であった。しかし本日の箇所における「初め」とは、この世界や時間の「初め」を超えた、それより遥か以前より存在した「永遠の初め」である。「言」である主イエスは、世界の初めに創造された存在ではなく、永遠なる方であり、昨日も今日も明日も変わらず、過ぎゆくことがない。
その「言は神と共にあった」(1節)。そして「言は神であった」(1節)。さらに「この言は、初めに神と共にあった」(2節)。ここでは「子なるキリスト」とは別の「父なる神」としての「神」の存在が示されている。「唯一の神を信ずる」と告白する我々は、ここで混乱させられる。確かにここでは明らかに「言なる神」と「父なる神」が同一者としてではなく別人格を持つ存在として語られているからである。原文の文法を参照しても、この二者が別個の人格として書かれていることは明白である。
同時にここでは「共に」という言葉に注目したい。これは「父なる神」と「言なる神」である主イエスが親密に結ばれ、まさに一体であることを表現する言葉なのである。それはただ場所を同じくしているというニュアンスではなく、人格的な交わりの関係において一体であるということを示す。「向き合って」とも訳せるこの「共に」という言葉の意味は、「愛し合い、語り合っている姿」とも説明される(蓮見和男)。「父なる神」と「言なる神」としての主イエスは、切っても切り離せない、深い関係である。別個の人格を持ちながらもまさに一つである。
このことは、ひいては「三位一体」としての神とは、我々の理性で納得できるものではない。「三つの神」ではなく、「三つの人格」が存在するのであるが、同時にそれが「唯一の神」であるとするのが「三位一体」という表現であるが、この「共に」という言葉がその事情を相応しく表現している。
我々は「父なる神は創り主」「子なる神は救い主」と分けて考えることがある。しかしここでは「万物は言によって成った」(3節)と言われている。つまり、「言なる神」であり、永遠におられる主イエスが、天地創造の時にそのみわざに深く関わられ、重要な役割を果たされたのである。「父」と「子」は全く別の働きをしておられるのではなく、密接な関わりを常にもっておられるということが分かる。
聖書全体もまた、そのような方として主イエスを告白している(cf., Ⅰコリント8:6、コロサイ1:15-18、ヘブライ1:1-2)。主イエスは、三位一体の神の深い交わりの中で、まさに父なる神と同じ意志を持ち、同じみわざをなされる神である。主イエスは創造に深く関わられた。すなわち、主イエスによって我々は存在し、存在が支えられている。だから、この主イエスを離れたら我々の存在の意味はないのである。我々は偶然に生まれ、生きているのではない。神の意志の中で、神の計画の中で、創造され生かされている。我々は神に創造されたかけがえのない意味ある存在である。主イエスは、その神の意志と計画を我々に啓示しておられる。「神の似姿」として人が創造されたという意味は重要である。三位一体の神の交わりは、「父」「子」「聖霊」が人格を持ちつつうちにおいて深く交わり、一体となっている姿である。その姿に似せて、人は創造された。つまり、「神との交わりを持つ者」として、また「神の愛に応答する者」として人は創られ、愛されているのである。
偶像は「物言わぬ神」であり、人間の側の欲望や願望が投射されたものである。しかし、三位一体の神は「物言わぬ神」ではなく、我々の思いを超えてご自身の御心を語られる。神は主イエスを通して我々に語り、出会われる。我々は主イエス抜きにして神に出会うことができない。主イエスは「意志を伝える単なる道具」としての「言葉」ではなく、「神の意志そのもの」としての「言」だからである。我々はそのような「言」なしに、本来の人間として立ち得ない。本日の箇所は、そのような「キリスト告白」である。