マルコによる福音書 16:14-18
主イエスは11人の弟子たちに復活のご自身を現わされた。そして「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」(14節)。主イエスが求めておられる信仰は、「復活の主イエスに出会った」という証言を聞き、主イエスが今も生きておられること、復活して救いのわざを成就してくださったことを信じる信仰である。しかし、11人の弟子たちはその証言を聞いて信じることをしなかった。彼らは生来「信心深い」というわけではなく、やはり「復活」のメッセージを聞いても信じられない人間であった。このことは我々にとっての慰めである。我々にしても、やはり「復活」のメッセージを聞いてすぐに信じることはできない。しかし、それでもなお、聞き続ける中で少しずつでも信仰の目が開かれていったとしたら、それは神の恵みに他ならない。我々が自身の不信仰を恥じる必要はない。神の恵みは、我々の不信仰をも覆ってくださる恵みなのである。
そして主イエスは、その不信仰であった弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15節)と託された。ここに記された「すべての造られたもの」という表現には、「人間」だけにとどまらない広がりを感じることができる。主イエスはまさに「神が造られたすべてのものの主」でなのである。そして「福音」とは「喜ばしいおとずれ」である。人間のどんな罪や不信仰も覆ってくださる神の救いと恵みがあり、我々を御手の中に生かし、御心に適う者として育ててくださるというメッセージである。その福音は主イエスの生と死と復活により成就され、その宣教を主イエスはまず11人の弟子たちに託された。主イエスがご自身のためにお選びになった弟子たちは、決して完璧で素晴らしい人々ではなかった。ここにいる11人は、イスカリオテのユダのような形で主イエスを裏切ったわけではない。しかし、だからといって彼らがユダよりも出来のいい、信仰深い人間であったかというと、そうではない。彼らもやはり、主イエスの受難の時には主イエスを捨て、主イエスを裏切った者たちであった。それでも主イエスは、そのような者たちに大切な福音宣教の働きを委ねられた。彼らはここで完全にすべてを理解したから宣教の働きに出て行ったのではない。主イエスに働きを委ねられ、出て行き、福音を語る中で信仰の恵みを知っていったのである。不信仰な者であっても、恵みにより捉えられ、主イエスの働きに仕える奉仕者とされる時、信仰に生きる者へと創られていく。その信仰とは、罪人をなお愛し、捉えてくださる神への信仰であり、弱い者の内に生きて働いてくださるキリストへの信仰である。これらのことは、主イエスに従う歩みの中で知っていくことができる。主イエスを信じても、「救われた」と言うだけで主イエスに従わず、主イエスの働きを共に担わないならば、神の恵みを知ることはできない。主イエスに従い、それぞれのところで与えられた働きを担う歩みは、決して喜ばしいばかりのものではない。しかし、その歩みの中で、生きて働いておられる主イエスの恵みを知っていくことができるのである。
主イエスはここで「信じた者は救われる」とではなく、「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われる」(16節)と語られた。やはり「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける」ということは大切なことである。洗礼(バプテスマ)自体に救いの効力や魔術的な力があるわけではないので、「信じていようがいまいが、洗礼(バプテスマ)を受けさえすればいい」ということではない。反対に、だからといって心で信じていさえすれば、洗礼(バプテスマ)を受けようが受けまいがどちらでも構わないということではない。心で信じた者は、からだをもって「わたしはイエス・キリストを主と信じる」と言い表わすべきである(cf., ローマ10:9-10)。洗礼(バプテスマ)は、自身の信仰をからだで言い表わす告白である。洗礼(バプテスマ)によって、自分自身に従う生き方に対して死に、主イエスに従い主イエスと共に生きる者として新たにされることが表わされていく(cf., ローマ6:3-4)。「主イエスを信じる」ことは「主イエスに従う」ことであり、洗礼(バプテスマ)は主イエスに従う行動の第一歩なのである。
洗礼(バプテスマ)は「自分は主のものである」という告白であり、キリストのからだなる教会に結び付けられたというしるしである(cf., Ⅰコリント12:13)。キリストのからだなる教会に結び付けられることにより、そのかしらであるキリストご自身が、そのからだの各部分を養い、そのからだを通してご自身の栄光をあらわしてくださる。
また、洗礼(バプテスマ)は「聖なる者」「神のもの」とされるという「しるし」である(cf., Ⅰコリント6:11)。それは「人格者になる」という意味ではなく、「神のものとして、神により生かされる」者とされるということである。
そして、聖書において「洗礼(バプテスマ)」と「霊」という言葉が結びついているということを大切に考えたい。洗礼(バプテスマ)は「聖霊の賜物を受ける」ことと関係する。「罪の赦し」もまた、「聖霊の賜物」である。(cf., 使徒2:38)。神によって生かされる者の内には生きて働く聖霊が与えられ、その「実」が結ばれる(cf., ガラテヤ5:22)。またその「実」は主イエスにつながっている時に結ばれるものであり、そのことに期待して生きていくことができるのである(cf., ヨハネ15:1-17)。
バプテストの先達は「信仰者のバプテスマ」を大切にすることを願って苦闘した。当時の国教会的なシステムの中では、「国民(市民)であること」と「教会員(クリスチャン)であること」は同一の事柄であり、「幼児洗礼」は、その地に生まれた者が誕生後すぐに自動的に「国家」と「教会」につなげられるということを意味した。しかし、バプテストは「信仰者のバプテスマ」「信じてバプテスマを受けた者の群れとしての教会」を主張し、迫害されていったのである。またこの主張は「国家と宗教の結びつきの否定」でもあった。「政教分離」が勝ちとられるためには、実に多くの血が流されていったのである。
17-18節に記されている「奇跡」に関しては、「使徒言行録」と結び付く。「悪霊を追い出し」(17節)とあるが、「悪霊」とは「神の支配を否定する力」である。主イエスによって生かされ、神の支配の中で神にからだごと委ねていくとき、我々は「悪霊」から解放されて生きるようにされる。我々は、そのような恵みに一歩一歩あずかっていく。「神に委ねる」という歩みは、信仰から信仰へと、一歩一歩導かれていかなければできないからである。神ならぬ、神の支配を否定する何者かに心が支配され落ち込むのは、「悪霊」による誘惑のゆえである。だからこそ、「主の祈り」の中には「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りがある。それは「悪霊の誘惑から救いだしてください」という祈りであり、また「まことの神を信じて生きられますように」という祈りでもある。「新しい言葉」(17節)とは、そのように神に委ね、主イエスによって生かされる者の証しの言葉なのである。