マルコによる福音書10章13-16節
『新共同訳聖書』においてこの箇所の表題は「子供を祝福する」となっているが、ここでは「神の国」ということがテーマとされている。この「神の国」についてヨハネは「永遠の命」と表現し、マタイは「天の国」と表現したが、いずれにせよ主イエスが宣べ伝える「神の国の救い」について語ろうとしているのである。
主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と教えられた(マルコ1:15)。これは主イエスによる「神の国」の教えの要点と言える。また主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と教えられた(マタイ6:33)。そういう意味で、「神の国」は「我々の救い」なのである。それはどのような「救い」なのか。また、どのような者が入れられる「救い」なのか。本日の箇所はとりわけ、この後者の問いに答えている。
「神の国」の捉え方や説明の仕方には様々なものがある。主イエスも様々な譬えを用いて「神の国」について語られた。一言で定義するのは大変難しいものではあるが、「神の国」は「父なる神の家」であると捉えたらよいのではないか。「放蕩息子」の譬えを思い出すならば、父の家を飛び出した息子がUターンして帰ってきた時、「まだ遠くに離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)。そして、息子を喜んで家に招き入れ、祝宴を催したのである。「父がおられる家」こそ「神の国」であり、そこで我々は「神の子ども」として迎えられ、神を「アッバ、父よ」と親しく呼ぶ。
また、「神の国」のイメージの中に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)という主イエスの言葉も含まれよう。同時に、「神の国」というところは我々が寝そべってのんびりしていればよいというだけのところではない。主イエスは続けて「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と言われる方である。主の支配を信じ、信頼し、頂いている重荷や働きを主に共に担って頂き、自らの弱さや不足の中であらわされる主の恵みと力にあずかっていく、主の御用のために働くその場所が「神の国」なのである。そういう意味で、「神の国」とは主の栄光のために我々が働くことのできる、生き生きとした動きのある場所であるとのイメージも必要ではないだろうか。
内村鑑三は著書『後世への最大遺物』の中で次のようなことを語っている。神の国の福音にあずかった我々が神の国のために働くには何が必要か。第一は「お金」である。神の国の働きのために「お金」を生みだす事業家が生まれてほしい。第二は「お金を使う人」である。ささげられた「お金」を教会のため、世界のため、社会のために相応しく用いることのできる働き人が必要とされている。第三は「誰でも遺せる最大遺物」、すなわち「勇ましい高尚なる生涯」である。悪の力ではなく神が支配する世の中であるということを信じ、富も学問もなかったとしても神の恵みを受けて生涯を送った証しのできる生涯こそがキリスト者としての「最大遺物」なのである。キリスト者は「主の重荷も共に担う」という生涯の喜びを頂く。主イエスは「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)と教えられたが、主が共に働いておられるところに、現在既に始まっている「神の国」がある。
また、「神の国」について主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20-21)と教えられた。「神の国」は我々の心の中にあるような、内面化されたものではなく、「あなたがたの間」すなわち「関係の中」にあるのである。我々が共に生きる場所、関わりを持ちあう場所に、既に「神の国」が来ている。
更に「神の国」は、将来完全な形で成就することが約束されている。主イエスは「最後の晩餐」の折に「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ14:25)と言われた。神の全き支配は今、既に存在するが、それが最後最終的に完全に成就するのは将来であると、聖書全体が証ししている。
そのような「神の国」に入るのは、どういう者か。主イエスは「神の国の到来」を宣言し、「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われた。「悔い改める」とは「心の向きを変える」「方向転換する」という意味である。「放蕩息子」の譬えは、その事情を良く表現している。今まで自分の楽しみだけを追い求め突き進んでいた息子が、行き詰まり、方向を変えて父の家に帰って行った。これが「悔い改め」の姿である。
ところで本日の箇所では「子ども」の存在がクローズアップされている。ここでは何歳くらいの「子ども」がイメージされているのだろうか。広く捉えることが可能であるが、「子ども」「幼子」というのは、親に全くの信頼を置き、親が与えてくれるものを疑わず素直に受け取る。そのような時期が「子ども」の時期であろう。我々には「清らかさ」「純粋無垢さ」のようなものではなく、「単純で素直な神への信頼」こそが求められている。主イエスこそ、まさに地上の生活において「子ども」のように父なる神を信頼した方であった。「わたしは柔和で謙遜な者だから」(マタイ11:29)と語られた主イエスは、父なる神と等しい方であるにもかかわらず、へりくだり、人として父なる神を仰がれた。「信じる」とは、こちらの側で信じる対象としての「神」を吟味し指図することではない。主イエスが示された「神」をへりくだって崇め、「一切を神がご存知であり、必要を備え導いて下さる」と信頼して生きることこそ、「信じる」ということである。
本日の箇所の冒頭、主イエスに触れていただくために人々が子どもを連れてくると、「弟子たちはこの人々を叱った」(13節)とある。弟子たちが何故叱ったのかということは、想像の域を出るものではないが、せっかく主イエスがお話ししてくださっているのにその場が騒々しくなってしまい、皆が落ち着いて主イエスの言葉を聞けなくなることを懸念し、良かれと思って「叱った」のかもしれない。しかし、主イエスは「これを見て憤」られた(14節)。子どもたちこそ、何の計算もなく、触れて頂こうとして単純に喜んで主イエスのもとに来る。親を信頼するように主イエスを信頼する姿、これこそ「神の国」に入る者の姿であり、排除されてはならない者たちの姿であった。「神の国」にはすべての人が招かれているのである。