ヨハネによる福音書11:17-27
主イエスはついにベタニアへ向かわれたが、「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」(17節)。ラザロの死はマルタとマリアにとってどうしようもない事実であり、望みを絶つ現実であった。「ベタニア」(18節)という地名はしばしば聖書に登場するが、「悩む者の家」という意味を持つ名であり、この世をあらわすような名であると言える。死と死別、悲しみ痛みという「悩み」のあるところに、この時主イエスは来られた。そして今も主イエスはそのようなところに来て下さる方なのである。
当時、ユダヤの葬儀は7日近く続いたという。遺体は早々に墓に葬られ、その後、遺族を慰めるために7日近く弔問客が訪れるのである。ベタニアはエルサレムから3㎞ほどのところに位置しており、恐らくこの時、エルサレムからも多くの弔問客が訪れたことであろう。主イエスが来られた時、マルタは「迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」(20節)。この箇所をマルタとマリアの性格・行動パターンの違いから語る註解者もいるが(cf., ルカ10:38~)、恐らく当時の習慣に従い、多くの弔問客に対応するためにマリアは部屋に留まっていたのであろう。
主イエスは他の人々のように弔問のためにここを訪れたのではない。「わたしは彼を起こしに行く」(11:11)と言われた通り、「死んだ者」「眠りに就いた者」を起こす「復活の主」として、主イエスはこの場面に登場されるのである。
弟の危篤を知らせたにも関わらずすぐに来てくださらなかった主イエスに対し、マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)と残念な気持ちをぶつけた。しかし、主イエスとの交わりを持っていたマルタは、主イエスを「普通の人」としてではなく、「特別な人」「神の人と」としてとらえていた。より具体的には、当時祈りの力で奇跡を行う人々が存在したが、マルタはそのような力のある一人として主イエスを理解していたのである。そして「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(22節)と続けるのである。
主イエスは「あなたの兄弟は復活する」(23節)とマルタに告げた。するとマルタはその答えに満足せず、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)と応じた。「そういうことは知っている」と言うのである。当時のユダヤ人が持っていた「終わりの日には最後の審判を受けるために死者たちが墓の中からよみがえる」という復活理解を、マルタもまた持っていたのである。しかし愛する者の死を前にして、そのことは実際に彼女にとっての慰めや希望にはなっていなかった。現在の日本でも、「死んだら天国に行く」と俗に言われることがある。それはある人たちにとっては慰めになるかも知れないが、不確実なものである。キリスト教が「死者の復活」「天国」「永遠の命」を語る際、一般に信じられている「天国」とそれがどのように違うのか、我々は問われることになる。
キリスト教は「啓示の宗教」「出来事の宗教」である。神が歴史の「出来事」を通して我々に語っておられるところに、その信仰の根拠がある。神は「出来事」を通して、救いの御業をあらわし御心を語られるのであり、信仰者は聖書において語られる歴史の「出来事」から神の御心を聴き取るようにされる。旧約聖書に登場する預言者にしても、直接に天からの声を聞いたというよりは、むしろ、歴史の「出来事」の中に神の御心を聴き、自身の置かれた時代状況の中で語った。しかしもちろんその際、「神がどのような方であるのか」という基本は常にあった。それを示すのが「律法」である。「律法」から「預言」が出てきたのである。特に「十戒」を通して「神がどのような方であるのか」ということが示された。神の律法がこの時代状況の中で神ご自身をどのように語るのか、それを人々に語ったのが預言者であった。それゆえ「律法」と「預言」は区別されるものではない。聖書の中では旧約聖書を「律法と預言」と表現する。両者は切り離すことができないからである。いずれにせよ、主イエスの「出来事」を通して神はご自身の救いの御業をあらわされた。我々の「復活」「天国」「神の国」を信じる信仰は、そのことを信じる信仰なのである。
そして主イエスは「わたしは復活であり、命である」(25節)という非常に大切な言葉を語られた。ここで言われている「命」とは、生物的・肉体的な意味での「命」ではなく、それを超越した「霊的な命」である。続く「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(25節)というのも、「肉体的に死ぬことがない」ということではなく、「主イエスを信じる者は肉体的に死んでも、究極的な永遠の命に生きる」という意味である。地上に生きて主イエスを信じる者にとって、肉体の死はある意味で無意味である。「死の棘」はもはや主イエスによって取り去られ、本来の意味の「死」はなくなったのである。そして「永遠の命」とは、主イエスが父なる神から受けられ、それを我々に与えてくださっているところの「賜物」としての「命」である。ヨハネが繰り返し語るように、信じる者は既に今、その「永遠の命」に生かされている。
「主イエスを信じる」とは常に主イエスの前に立ち、主イエスとの交わりの中に生きている状態を指す。そのような者である限り、主イエスから与えられる「永遠の命」は肉体の死をもって終わる「命」ではない、という約束が与えられている。また、「主イエスを信じる」とは「十字架の贖いの死」を信じることである。「主イエスがわたしの罪のために死んでくださり、父なる神との交わりを回復してくださった」という「贖い」を信じる者は、もはや裁かれることがないという信仰である。
主イエスは復活であり命である。「このことを信じるか」(27節)と主イエスはマルタに尋ねられた。マルタは促され、信じると答えた。このマルタの信仰告白の中身は「主イエスが世に来られるはずの神の子・メシアである」ということであるが、それはまた初代教会の信仰告白でもあった。主イエスは「神の子」「世に来られた救い主」である。「イエスは主なり」とは、そのことを信じる単純明快な告白である。そのことは、父なる神が主イエスの生涯を通して、十字架の死と復活を通して示された。この「主イエスの出来事」にキリスト者の信仰告白の根拠と内容がある。そのことをおぼえ、信仰を告白していきたい。この主イエスこそ、まことの神であられたが神であることに固執することをせず、へりくだって我々のうちに来られ、罪を贖う方である。
我々は限りある人生を生きているが、その中で主イエスを知り、主イエスとの交わりに生かされるとき、「永遠の命」が与えられていることを常に想起し告白していくのである。繰り返し学んでいるように、主イエスを通して神との関係の中に生きる時、我々は「永遠の命」に生かされている。「永遠の命」は既に与えられているが、もちろん肉体の死を超えて与えられる「命」でもあり、この世だけで終わってしまうものではない。主イエスが再び来られて我々を御国へと招いてくださる「終わりの日」が必ず到来する。その「再び来られる主」を待ち望むのも、我々の信仰である。この「終わりの日」に神と我々の交わりは成就する。現在も我々は交わりを与えられ、主イエスの顔を仰ぎ見ているが、そこで見えている姿は完全なものではない。しかし、「終わりの日」に我々は主イエスと完全に顔を合わせる(cf., Ⅰコリ13:12-13)。「永遠の命」にはそのような希望も含まれているのである。