2025年5月11日(日)
主日礼拝 宣教要旨
聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙2章 19-21
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
ガラテヤの信徒への手紙2章20節
キリスト教信仰の中で最も力強い真理の一つが、「内に生きるキリスト」です。この言葉はパウロの信仰の核心であり、私たちの生活にも深く関わっています。
19世紀末、中国の苗(ミャオ)族への宣教に生涯をささげたサミュエル・ポラードは、その献身の源について「私が生きているのではない。キリストが私の内に生きておられるのだ」と語りました。マザー・テレサもまた「私ではありません。私の内におられるキリストが働いておられるのです」と証言しています。彼らの生き方は、パウロの言葉と深く響き合います。
パウロは「わたしは律法に対しては律法によって死んだ」と宣言し、律法の役割がキリストにおいて完成したことを示しました。私たちもまた、「良いクリスチャンでなければ」という義務感に縛られがちですが、神が望んでおられるのは外面的な行いではなく、内に生きるキリストによる心の変革です。
「キリストと共に十字架につけられています」という言葉は、過去の出来事ではなく、今も続く霊的な現実を指しています。キリストは今も世の苦しみを担っておられ、私たちも自己中心な思いに死に、キリストの命に生きる者とされています。「キリストがわたしの内に生きておられる」とは、日々の思いや決断の中にキリストが働いてくださることです。職場で正義を選ぶ勇気、家族との関係で相手を理解しようとする姿勢、疲れていても差し出す助けの手など、それらすべてが、内に生きるキリストの現れです。
私たちの信仰の土台は、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰」であり、これは私たちの努力ではなく、キリストの忠実さと愛に基づいています。恵みに応えて生きるとき、信仰生活は義務感から解放され、喜びと自由に満たされます。
この一週間、日々の歩みの中で心を向け、「今、私の内に生きておられるキリストは何を語り、何を願っておられるのか」を思い巡らしましょう。罪や失敗への赦し、苦しみの中での希望、難しい人間関係での愛、そのすべてにおいて、キリストが私たちを導き、支えてくださいます。「生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです。」この告白こそが、私たちの信仰の核心であり、揺るぎない希望の土台です。