2025年10月26日(日)主日礼拝宣教要旨
聖書箇所:ヨナ書 4章1~11節
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。 」
ヨナ書 4章10-11節
ヨナ書4 章 1 11 節は、ニネベの救いに怒るヨナと、彼と対話し続ける神様の姿を描いています。 10 月の月間主題「奉仕と献身」の最終週として、私たちは「人知を超える神の愛」について、深い教訓を受け取ります。
第一に、聖書は「自己中心的な視点からの解放」を教えています。ヨナはニネベの救いに激しく怒り、とうごまの木で一喜一憂しました。自分に都合の良いことは喜び、都合の悪いことには怒るこれは私たち自身の姿でもあります。神様は「お前は怒るが、それは正しいことか」と二度問いかけられました。これは単なる叱責ではなく、対話への招きです。信仰とは、自分中心の視点から神中心の視点へと転換することです。「何が私にとって良いか」ではなく、「神の御心は何か」を問うことが求められています。
第二に、聖書は「神の憐れみの広さ」を明らかにしています。神様は、ヨナが何の労苦もなく得たとうごまの木を惜しむなら、なぜ神が創造し愛する十二万人以上のニネベの人々を惜しまずにいられるだろうかと問われます。「右も左もわきまえぬ人間」 これは幼い子どもたちや、善悪の判断がつかない人々を指します。神の目には、彼らは滅ぼすべき敵ではなく、憐れむべき存在なのです。イエス様が教えられたように、父なる神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。
第三に、聖書は「対話をあきらめない神」を示しています。ヨナ書は神の問いかけで終わり、ヨナの応答は記されていません。この未完の物語は、今を生きる私たちへの問いかけです。「あなたはどう思うか」「あなたならどう答えるか」 神様は私たちとの対話を求め続けておられます。どんなに頑なになっても、神様は忍耐強く語りかけてくださいます。祈りは一方的な願い事ではなく、神との対話です。日常生活の様々な出来事を通して、神様は「それは正しいことか」と 問いかけておられます。
現代において「人知を超える神の愛」に生きるとは、自分の正義感や価値観を絶対化せず、すべての人の中に神のかたちを見出し、神との対話を 続けることです。教会は、人間の基準で人を裁く場所ではなく、神の愛を分かち合う共同体として召されています。家庭でも、職場でも、地域社会でも、私たちは神の愛の広さを証しする者として遣わされています。
ヨナ書の未完の結末は、私たち一人一人の中で完成されるべきものです。私たちの心にあるヨナ的な部分 自己中心性、狭い正義感、敵への憎しみ と向き合い、神の愛の広さを受け入れていくことが求められています。人知を超える神の愛に包まれ、その愛に生きる者として、今週も共に歩んでまいりましょう 。