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主日礼拝宣教要旨

「わたしはここにいます」山下真実牧師(ふじみ野バプテスト教会)

2024年4月28日(日) 礼拝宣教要旨
聖書箇所:ヨハネによる福音書 9章9-12節

 

「…本人は、『わたしがそうなのです』と言った。」

ヨハネによる福音書 9章9節


 私たちは、自分がいつどこに、どのように生まれるかということを選ぶことができません。それらを私たちは「境遇」「運命」と言ったり、教会では「神さまのご計画」、仏教では「ご縁」と言ったりします。今日の聖書の物語には「生まれつき目の見えない人」が出てきます。「生まれつき」それは「それは誰にもどうすることもできないものである」という現実が表されている言葉です。そして弟子たちは、その理由を「その人自身にあるのか、その両親にあるのか」と、彼らの先生であるイエス・キリストに尋ねました。
 イエス・キリストは「神の業がこの人に現れる」(3節)と言われ、命のもとなる神さまが、彼の命を負ってくださるのだと語られました。そしてその後、この人の目を開かれたと聖書は物語ります。しかし今日の物語では、この「生まれつき目が見えない人」が見えるようになったことよりも、もっと大きなことが8節9節で強調されています。
 彼は「わたしがそうなのです」と言いました(9節)。この言葉は、ギリシャ語で「エゴー エイミー」という言葉で、8章58節でも、神さまの名前(「わたしはある」)として登場しています。ヨハネ福音書は、目が見えるようになった彼が、人々の前でこの言葉を口にしたと物語っているのです。人々から指を指され、社会から疎外され、目立たずひっそりと生きていたであろう彼が、人々の前に自信をもって出ることなど決してできなかったであろう彼が、人々の真ん中で「わたしはわたしです」「わたしはここにいます」と言うことができるようになった……「エゴー エイミー」”I am”「わたしです」「わたしはここにいます」と……このできごとこそが彼の命を、その後の彼の人生を救いに導いた光だったのでしょう。
 イエス・キリストは、そのような「神の業」を「まだ日のあるうちに」「わたしたち」が行わなければならないと語られました(4節)。私たちは、私たち自身の間にその光を見ることを願い、目の前にある大切な一つひとつの命と、出会っていきたいと思います。

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