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主日礼拝宣教要旨

「静寂なる旅路:祈りと内省」 M.I

2024年3月10日(日)礼拝宣教要旨
聖書箇所: マタイによる福音書6章5-8節 

 

「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

マタイによる福音書6章6節


 主イエスは祈りの本質について教えられます。祈りは極めて神との個人的な関係の中で静かに自分と向き合う必要があると言います。祈りは外界の喧騒を遮断し、神とそして自分自身と深く向き合う時間です。祈りの中で私たちは自分の内なる声に耳を傾け、神との「コトバ(言語だけではない)」のやり取りを行います。心の中の感情や言葉にならない願いを通じても神と深くつながることできます。聖霊は私たちの「コトバ」にならないため息でさえも神に伝えてくれます。このことから、私たちは言葉を超えて神と対話できる安心感を持つことができるのです。この静かな時間を通して、私たちは自分自身がどのような存在であるかを発見します。神と人との個人的な関係について藤木正三牧師(日本基督教団牧師、故人)は「第三者の知ることができない、そういう関係、神との関係とは本来そういうものである。一般議論の的になることを許さない、しかし、その本人には切実に問題となるそういうその人自身にとってのその人の事柄である」と言っています。私の言葉にならない「コトバ」を神はご存知で、私は神の「コトバ」を聴く、それが祈りです。生かしてくださる方に心を開いてこそ、人間の存在は落ち着くものだと思います。私たちは、目先の事で自分の都合で閉じた生き方に流されやすく、自分勝手な思いに流され自分勝手に思い煩います。自分を閉じて自己完結しようします。そして、そこから解放されることを願っています。祈ることによって、自分中心から神中心へと変えられていきます。私たちは実は生かされ続けていること、主イエスがずっと寄り添って生かし続けてくださっていることに気付かされる。それが祈りの恵みではないか。たとえ、言葉にできずとも、個人的に神とつながっているその中で対話をしていける、それは生きている今も、この世での生涯を終えたその先も与えられている恵みなのだと思います。私たちは祈り続けることができるのです。

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