ようこそ西川口キリスト教会のホームページへ

地域と共に歩む桜並木の教会

教会員ページ
主日礼拝宣教要旨

「塵あくたか、それとも宝か」 朴 思郁 牧師

2025年6月15日(日)
主日礼拝 宣教要旨
聖書箇所:フィリピの信徒への手紙 3章2-9節

 使徒パウロは強い意志力と行動力を持つ完璧主義者で、一度信じたことには全力で取り組む人でした。最初は律法への熱心さによって教会を迫害し、後には復活のキリストに出会った者として、その情熱をすべて福音に注いだのです。そんなパウロが、自分がかつて誇りとしていたものを「塵あくた」と呼んでいます。王族の血筋であるベニヤミン族出身、最高峰の神学教育を受けたファリサイ派、律法遵守率100%の完璧主義者。現代で言えば、皇族の血を引き、最高学府を首席で卒業し、エリートコースを歩んでいるような人物だったのです。 
 第一に、パウロは「偽りの誇りへの警告」を語っています。外見的な宗教的行為を誇り、それを救いの条件にする偽教師たちに対して、「真の割礼を受けているのは、神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないわたしたちです」と宣言しました。第二に、パウロは「価値観の劇的な転換」を経験しました。ダマスコ途上でキリストとの出会いによって、それまで「宝」だと思っていたものが「塵あくた」に見えるようになったのです。これは単なる価値観の変化ではなく、まったく新しい世界の発見でした。第三に、パウロは「神から与えられる義という恵み」を発見しました。「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と告白しています。この義は、私たちの努力や成績とは関係なく、神が一方的に与えてくださる「正しさ」です。 
 現代社会は、常に私たちに「もっと頑張れ」「もっと成功しろ」と要求します。学歴、職歴、収入、容姿、才能などすべてが比較の対象になってしまいます。このような中で、自分の価値を外的な条件に求めてしまうのは自然なことかもしれません。しかし、キリストを知ることの素晴らしさは、無条件の愛、完全な受容、本当の平安、そして他者への愛を知ることです。私たちの成績や努力、成功や失敗に関係なく愛してくださる方がおられることを知ることです。 
 この「塵あくたか、それとも宝か」という問いかけは、私たち一人ひとりに向けられています。自分の努力による「正しさ」から、神が与えてくださる「愛」へ。競争から協力へ。プレッシャーから平安へ。重荷から自由へ。これが、キリストを知ることによってもたらされる変化なのです。神の愛という真の宝を、日々新しく発見していく歩みこそが、私たちに与えられた恵みの道なのです。 

関連記事

PAGE TOP