2019年6月23日 教会学校分級資料
「わたしの喜びの人たちよ」フィリピの信徒への手紙3章12-4章1節
斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟から発行されています。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
前回箇所以降、今回の直前までのあらすじ…まず2章19~30節では、パウロの同労者テモテをフィリピへ派遣する計画が語られます。続いて、フィリピからパウロを支援するために派遣されたが、重病を負って死にかけたのち回復したエパフロディトを送り返す内容が書かれています。続く3章1~11節では、フィリピの信徒への手紙のテーマの一つである「主において喜ぶ」ことが語られます。それに続き、ガラテヤの信徒への手紙同様に、割礼を異邦人クリスチャンたちにも受けさせようとするユダヤ人クリスチャンたちを警戒するようにとの言葉。そして、パウロの力強いイエス・キリストに対する信仰告白が宣べられています。特に7~11節の部分は、本来丁寧に味わいたい箇所です。そして、今回の箇所に直結する内容ですので、合わせて読むことをお薦めします。
◆黙想と分かち合いのポイント
17節からの箇所で、クリスチャンでありながら、実はキリストの十字架に敵対している者が多いと、涙ながらに語るパウロ。現代に生きる私たちにも向けられている言葉として真摯に振り返りましょう。また、20節にあるように、「わたしたちの本国は天にあります。」という言葉も味わい深い言葉です。このような自覚がクリスチャンの生活にどのような変化をもたらすと考えられるでしょうか。共に黙想し、分かち合いましょう。
◆目標を目指して
3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。 3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。 3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい
>>>キリスト・イエスに捕らえられていると語るパウロ。そして、主イエスから賞を与えられることを目標に励んでいると語ります。確かに彼は、あらゆることを犠牲にして、主イエスのために人生を走りきった人でした。それでもパウロは自分を絶対化しません。15節では別の考えを持つクリスチャンにも配慮した言葉。16節では信仰の様々な成長過程にある人々への配慮。そして、17節では他のクリスチャンたちにも目を向けることを勧めるという具合に、主イエスならばきっとこう言うに違いないという視点に立った助言が続きます。
3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません
>>>パウロをここで嘆かせているクリスチャンたちというのは、恐らく自分たちではキリストに敵対して歩んでいることに気づいていない、かつてのパウロのような人々だと考えられます。両者の違いは、クリスチャンか否かということだけです。私たちがパウロを嘆かせる者の一人になり得るとすれば、それはどのような時でしょうか。考えさせられます。
3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
>>>21節で語られる内容のことを、キリスト教用語では栄化と言います。イエス・キリストを救い主と信じて、バプテスマを受けて従うようになることを「義化」、すなわち主イエスを信じる信仰によって神に義とされること。その後、クリスチャンたちがみことばに従順に生きることを通して導かれる御霊の実を結んでいく人生を「聖化」。そして、主イエスの再臨と共に栄光ある体に将来造り変えられる希望を「栄化」と言います。この歩みの中に私たちひとり一人が無条件に、かつ、キリストの十字架のあがないという神の犠牲を通して招き入れられていることを共に感謝し、絶えず主の慰めと励ましによって喜びを回復しながら日々の生活に励みたいと思います。