山㟢 美奈 教会音楽スタッフ
もうすぐペンテコステ(聖霊降臨日)ですね。今回からフィリピの信徒への手紙に入ります。1章を読むにあたり、この手紙がどのような背景で書かれたものなのかも踏まえつつ、パウロの手紙を共に味わってまいりましょう。
①フィリピの教会とは・・・
パウロの第2回宣教旅行の際に伝道されたヨーロッパにおける最初の教会(使徒16:12~34)。フィリピの町はマケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市(使徒16:12)でした。(聖書巻末地図8参照)そこでパウロはユダヤ教の信仰をもっていた婦人たちに伝道し、それがこの教会の形成につながります。フィリピ教会とパウロとの関係はきわめて良く、フィリピの教会は経済的にパウロを援助することも行なっていた程、お互いに強い信頼関係で結ばれていたようです。
②どこで書かれた?パウロの執筆状況
パウロはこの手紙を書いた時は獄中にいました。(フィリ1:7、13、14)手紙の最後に「特に皇帝の家の人たちからよろしく」(フィリ4:22)とあることから、ローマの獄中で書かれたものと考えられます。(聖書教育P.15より)
③「喜びの手紙」
この手紙はフィリピの人々に対する感謝の気持ちにあふれ、特に主にある喜びが強調されていることから、しばしば「喜びの手紙」と呼ばれます。パウロが獄中にありながらもこのような喜びに満たされていたのは驚くべきことですが、その源は何なのでしょうか。
1:12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。1:13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他すべての人々に知れ渡り、1:14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
>>パウロが捕らわれの身になったことを案じているであろうフィリピの人々へ向けて、まさに死と向き合わざるをえない状況のパウロでありながらも、彼の身に起こったこのことによって、主に結ばれた兄弟たちがますます盛んに御言葉を語って(=伝道して)いること、まさに「キリストが宣べ伝えられている」ことの喜びを強調します。
1:15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でするものもいます。1:16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、1:17他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。1:18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
>>パウロはキリストが宣べ伝えられていることをひたすらに喜びます。わが身が捕らえられて身動きがとれなくても、福音は前進する(キリストは宣べ伝えられる)ということを実感しているのです。
1:19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。1:20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
>>パウロの熱い想いがほとばしります。キリストが宣べ伝えられることへの喜びと希望が、手紙の読み手へひしひしと伝わります。
1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。1:22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。1:23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。1:24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。1:25 こう確信していますから、あなた方の信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。1:26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。
>>この言葉はパウロの生き方を端的に表しています。死は彼にとって最終的な憩いであり、生きることは福音宣教、それは主によって託された彼の業なのだと。また、使命感をもってキリストを宣べ伝える彼の生き様があります。そして、25節以降では、パウロが信徒ひとりひとりを心にかけていることも示しています。
1:27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、1:28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。1:29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。1:30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
>>29節の「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとしてあたえられている」という御言葉は、マタイ5:11~12を想起させます。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
パウロの手紙はいつも熱を帯びています。彼自身、伝道者としての使命を全うするばかりでなく、同胞のクリスチャンに対しても心を離さずに覚えて祈り、熱心に筆を走らせています。そして感謝が彼の心をいつも支配しています。「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、こころを合わせて福音の信仰のために共に戦っており・・」ペンテコステを迎える私たちにとって大切な、そして力強いメッセージです。
パウロはキリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人であり、先祖の律法について厳しい教育を受け、熱心に(ユダヤ教徒として)神につか仕え、キリスト教徒を迫害していました。しかしある時、ダマスコ近辺で主と出会い、クリスチャンとして回心し、まさに文字通り目が、そして心の目が開かれました。(使徒言行録9章参照)ヘブライ語とギリシア語が堪能で、各地を巡り宣教活動をし、とても優秀な人であることもうかがえます。しかし一方、ユダヤの民から「裏切り者」「反逆者」と呼ばれるのも無理のないことでしょう。
彼は宣教者として、精力的に各地に伝道を続けます。教会は各地に増えていきました。しかし彼の健康状態は必ずしも良いとは言えなかった上に、ユダヤ教徒(ユダヤ人)には訴えられ、ローマ当局には危険人物として目の敵にされ、不当な暴力に体を痛めつけられたり、投獄されることもしばしばありました。
また、主に示され、主に与えられたタラントに恵まれた彼ではありましたが、彼自身を誇ることは決してなく、「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」とテサロニケ1:5にて述べています。手紙の中で彼は随所に神の愛と聖霊の導き、イエス・キリストによって成された贖いの業を説きました。そして多くの兄弟姉妹を励まし続けました。彼はこの状況下であっても主にある希望、すなわち「福音が前進する」喜びを見出し、手紙という形で発信したのです。
私たちはどうでしょうか。彼のような状況、即ちなにひとつ何一つ自由にならないこの獄中という状況で、このように喜びを語ることはできるでしょうか。そして自由にならない状況というのはこの獄中だけの話でしょうか。現代の私たちのお置かれている状況はどうでしょうか。30節にあるように、「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」この言葉が迫ってきます。
今日はフィリピの信徒への手紙から、パウロのほとばしる情熱を受けて、「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に」戦い、歩んでいきたいと思います。
アイキャッチ画像 Evgeni TcherkasskiによるPixabay