斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟から発行されています。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
パウロは長い手紙の締めくくりに近づくにつれて、聖霊の導きに耳を傾けることの重要性を繰り返し語っています。前回と今回の箇所の間にも御霊の9つの実について説明しています。総まとめのようにして書いている、パウロの締めくくりの文章を共に味わいましょう。
◆◆結びの言葉
6:11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。
>>>通常は他の同行者に口述筆記してもらうことが多いパウロの手紙ですが、少なくともこの最後の部分は直筆だということが分かります。パウロがどれほどガラテヤの諸教会のことを思っていたかが伝わってきます。
6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。6:13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。 6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
>>>ユダヤ人クリスチャンたちがガラテヤの諸教会を混乱させ、信仰の根幹に関わる重大な教理をねじ曲げてしまったことを、いかにパウロが歯がゆく思っていたかが伝わってくる文章です。その一方で、パウロは問題の根源をするどく見つめています。主イエス・キリストが十字架に掛かり、罪があがなわれる道を切り開いて下さったことによって、クリスチャンは律法(旧約聖書)が教えるあらゆる儀式的な行為から永遠に解放されたとの理解。そして、預言者モーセを通して律法が与えられる遙か以前、アブラハムの時代から、神の導きに信頼して従う信仰によって神に義とされるという教理が、聖書に存在することを再発見したパウロでした。ちなみに現代のユダヤ人たちは、今でも神殿を再建して、祭壇で犠牲を献げる日が来ることを待ち望んでいます。そして、旧約聖書が預言しているキリスト、すなわちメシアが到来する日を待ち望んでいます。なぜ、パウロは十字架のみを誇る者となったのでしょうか。それは彼が、イエスこそが聖書の預言するキリストであると見抜けず、もっともむごい十字架刑によってこの世から抹殺してしまった罪責感から出発していたからでしょう。絶対に十字架に付けてはならない人を見殺しにしたことは、永遠に許されるはずのない罪であることを理解していたパウロ。それにも関わらず、十字架のあがないこそが、罪をあがなっていただく唯一の道だと知らされたパウロでした。そんなパウロだからこそ出来た信仰告白ではないでしょうか。
6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。 6:17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。 6:18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。
>>>最後にもう一度パウロは語ります。律法的な儀式を行うかどうかではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって神に義とされ、聖霊の働きによって新しい人生を歩み出すことこそ大切だと。16節にある焼き印とは奴隷であることを意味しています。奴隷は一切の権利を主人に委ねた存在です。パウロは共にイエス・キリストの奴隷であるとの自覚を持つならば、互いに相手を見下したりしないはずだと考えたのではないでしょうか。最後に18節の挨拶文で「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」と語る時、「あなたがたと共にあるように」ではなく、「あなたがたの“霊”と共にあるように」とわざわざ聖霊の関わりを強調します。聖霊降臨以後、私たちは聖霊の導きと関わりの中で正しく聖書の福音を理解し、分かち合い、共に成長し、福音宣教の業に仕えていくことができることを感謝します。
InspiredImagesによるPixabayからの画像 (アイキャッチ画像はこちらからいただきました)