斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟から発行されています。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
復活をすぐには信じることができなかった弟子たちのために、主イエスが時間をかけて丁寧に、復活の事実を明らかにしていかれる様子を黙想しましょう。
◆弟子たちに現れる
24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
>>>部屋の戸から入らずに、突然弟子たちの前に出現した主イエス。亡霊だと思っても不思議ではありません。主イエスは、うろたえて疑いを起こす弟子たちのために、時間をかけてご自身の復活を証明していかれます。彼らに体を触らせ、実際に魚を食べてみせます。今回の箇所の直前で語られる、エマオに向かっていた弟子たちには、パンを割いて祝福の祈りをする動作を見せました。二匹の魚と五つのパンで群衆を養われた出来事を想起させます。主イエスとの数々の食事の際の思い出を持っていた弟子たちにとって、魚を食べる主イエスの動作は、復活を確信させるに足る動作だったのではないでしょうか。
24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
>>>主イエスは旧約聖書の預言が「必ず」、そして「すべて」実現することを強調します。注目すべきは45節です。主イエスが聖書を悟らせるために「彼らの心の目を開いて」とある点です。どのような場合にも、聖書の真理を悟るには、本人の祈り心と聖霊の助けが不可欠です。ここでは主イエスご自身が「彼らの心の目」、すなわち、聖書を理解するための霊的理解力を高める手助けをされたことが強調されています。聖霊降臨後、再び弟子たちはこの祝福に与っていくことになります。47節以降でも主イエスは、世界宣教の使命を全うするために、聖霊の関わりが不可欠であることを語っています。聖霊の果たす重要な役割の一つは、聖書の教えを生き生きと理解できるようになることだと示されます。そして、その教えを忠実に実行に移すための信仰を強められることだと言えます。聖霊降臨日までの期間、私たちもこの意義を黙想し、心を合わせて聖霊の祝福を祈り求める時として行きましょう。
◆天に上げられる
24:50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 24:51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 24:52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 24:53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
>>>52節には、弟子たちが主イエスを、神から遣わされた「特別な預言者」あるいは「救い主」としてではなく、神に等しい存在として「伏し拝んだ」ことが語られています。主イエスが彼らの心の目を開いて下さったことによって起きた、主イエスに対する信仰理解の決定的な変化が表現されています。「イエス(I)、キリスト(X)、神(TH)の子(U)、救い主(S)」それぞれのギリシャ語の頭文字を合わせると、魚を意味するギリシャ語「IXTHUS」になります。主イエスと魚に関連がある、数々の体験をした弟子たち。そして、人間を採る漁師にされていった弟子たちでした。聖書教育誌のコラムに掲載されている魚マークが、初代教会のクリスチャンの信仰を表すシンボルマークになっていったのも頷けます。