斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
どことなく、現代でもありそうな場面です。一人は働き者、一人はマイペースな兄弟姉妹。このような関係はどこの国にも、どの時代にもあることでしょう。しかし、今回黙想したいポイントは、主イエスが「必要なことはただ一つ」と言われた意味です。「マリアは良い方を選んだ」と言いますが、それはどんな良いことを指すのでしょうか。そして「取り上げてはならない」こととは何でしょうか。すべて、同じことが問われているようです。いざ自分の口で説明しようと思うと案外難しい問いです。共に考えたいと思います。
◆◆マルタとマリア
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
>>>他の聖書箇所などから、主イエスが到着した村はエルサレムに近いべタニア村だと考えられ、また、きっかけはわかりませんが、主イエスはこの姉妹、そして兄弟ラザロの三人と親しい間柄だったようです。今回、主イエスを家に招いたのはマリアだったことから、マリアが主催者として主イエスの一行の世話に全責任を持って奮闘していたことは容易に想像できます。しかし、予想以上に多忙だったのでしょう。しかも、手伝ってくれるものと思っていたマリアが、何もせずただ主イエスの足もとに座って話に集中していたことを考えると、マルタが愚痴をこぼしたとしても不思議ではありません。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
>>>マルタは我慢の限界が来て、主イエスのそばに近寄り、イエスと客人たちとの会話に割って入ってしまいます。マルタの言動はわからないわけではありませんが、その場のうち解けた雰囲気に水を差してしまったことでしょう。しかも、自分の姉妹であるマリアに客人たちの前で少し恥ずかしい思いをさせたのです。その上、主イエスと親しい間柄だったのかもしれませんが、受け取り方によっては、主イエスまでもが少し気が利かない鈍感者だと言わんばかりのセリフになってしまいました。そこで、主イエスはマリアを擁護しつつ、マルタに適切な助言をせざるを得なくなります。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と。言い換えれば、マルタは忙し過ぎたのです。自分の忙しさをよそに、平然と主イエスのそばで話に集中している姉妹のことも腹立たしくなったのでしょう。忙しいという漢字は「心が亡ぶ」と書きますが、マルタの心は確かに乱れていたことがわかります。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
>>>マリアには、マルタを手伝うという選択肢が初めからありました。しかし、主イエスの話に耳を傾け、集中することを選び取ったのです。その選択を「ただ一つだけ」、つまり本人にとっては真剣に最善と考えて選んだことを、他の人が自分の価値観で間違っているかのように裁いて批判したりすべきではない、と主イエスは言いたかったのでしょう。マリアはひょっとしたら、始めはマルタを手伝うつもりだったのかも知れません。しかし、主イエスが語り出した福音は、マリアが長年探し求めていたことへの答えだと感じて、主イエスの話に聞き入ってしまったのかも知れません。そのマリアが判断したことを、冷静に受け止めることが出来ていたならば、マルタはもっと静かにマリアの元に行き、マリアに手伝ってくれるように心を込めて懇願できたかも知れません。自分の責任と忙しさに取り乱したマルタにも、別の選択肢があったことを指し示す主イエスでした。また、マリアも本来ならばマルタに一言「ごめんなさい、今イエスさまが話していることはどうしても聞く必要があるの、手伝う必要があるのは分かっているけど、聞かせてね」とあらかじめマルタに配慮を示していたならば、マルタももう少し冷静になれたのかも知れません。
今回の場面は、私たちの日常の至る所に当てはまる内容だと思われます。どんな場合にも、まず主イエスのみことばに満たされていたいと願わされます。主イエスのみことばに励まされて、お互いの選択を尊重し合う関係を築き合えたら、どんなに主イエスも喜ばれることでしょうか。