斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆前回からのあらすじ・・・前回は5章27節~レビを弟子にする話でした。6章にはマタイによる福音書で取り上げられている山上の説教の一部が語られています。そして、今回の箇所の直前には遠距離にいる百人隊長の部下を言葉で癒す奇跡が語られています。この間に、遠方からさらに多くの人々がうわさを聞きつけて主イエスの元に集まって来ています。また、律法学者たちやファリサイ派の人々はますます主イエスを危険視するようになっていきます。
◆黙想のポイント
主イエスとの出会いによって、慰めを得た人々が自主的に神の御業を各地に伝えていくようになります。主イエスの御業が彼らに与えた影響について、黙想しましょう。
◆◆やもめの息子を生き返らせる
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
・ナインはおよそナザレから南に10㎞のところにある町でした。そこへガリラヤ湖半から大勢の群衆が、主イエスに従い、町の入り口まで来た場面です。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
・主イエスの一行(群衆)とは対象的な一団が町の外の墓場を目指して町の門へ向かっていました。なんらかの理由で夫がいない母親の一人息子の葬儀の一団でした。この悲しみにくれる母親に町の人が大勢付き添っていたものと考えられます。それぞれの集団がナインの町の入り口で出会っているのが、今回の場面です。
7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。・主イエスは母親に目を向けます。そして、心からその母親を憐れまれるのですが、そこで主イエスが母親にかけた言葉は、普通私たちが葬儀の遺族に対して使うことなどあり得ない言葉でした。主イエスはその母親の悲しみの根本を終わらせる覚悟を持って語られます。
7:14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
・無言で棺に近づき、手を触れられる主イエスの姿が想像できます。そして、死んだ若者に向かって話しかけ、起きるように命じます。主イエスがここで始められたことはまわりのすべての人に理解ができないものだったと思われます。しかし、主イエスの宣言の後に奇跡は起きます。
7:15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
・生き返った若者は何を口にしだしたのでしょうか。人々がそこで起きていることを信じられず、身動き一つとれないでいる様子が想像できます。そのような中で主イエスが彼の手を取って彼が棺の中から地面に降りるのを助け、驚きと畏れと感動で動けないでいた母親の元へ息子を返す情景が目に浮かびま
7:16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
・新約聖書の中でも最も感動的な場面の一つです。人々が真実に神の御業に対して畏れを抱き、神を賛美せずにはいられなかったことが語られています。主イエスの奇跡には感動だけではなく、神聖な神への恐れが伴うことが語られています。そして、彼らの心に次第に湧き上がったのが、自分たちが神に覚えられ、愛されているという特別な感動でした。この奇跡は、彼らに旧約聖書の大預言者エリヤが同様の奇跡を起こした場面を思い出させていたことでしょう。
7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
・ルカがこの話の最後に書いたのは、このことを体験した人々がこぞって遠くの地方にまで語り伝えた、つまりここで起きた神の御業を福音宣教したということです。聖書教育誌は「この話」が冠詞付きの言葉になっていることに目を向けています。すなわち、この出来事は単なる話や奇跡物語として語られたのではなく、「The Story」=「神の御業」として方々に語り伝えられたことを強調しています。私たちも常にこのような神への思いを持って福音宣教に遣わされたいと願わされます。
*聖書教育誌の執筆者たちの読み応えのある豊かな内容に感謝します。