教会音楽スタッフ 山嵜美奈
本日は、マタイによる福音書を読みます。前回では、お生まれになったイエス様をひと目見ようと、東方の学者たちがやってきます。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて黄金、乳香、没薬といった、贈り物を献げます。占星術の学者たちは、幼子イエスを見つけたとき、喜びにあふれました。(聖書教育P.106より)ただ、この幼子の誕生に不安を抱く者がおりました。時の王、ヘロデ王です。(マタイ2:3)ここからヨセフの幼子イエスを守るための奮闘がはじまります。
2:13占星術の学者たちが帰っていくと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」2:14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、2:15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
>>かつてモーセは、エジプト王の命令によって、幼子の頃、殺害される危機にさらされたことがありました。時のエジプト王ファラオが、エジプトでのイスラエル人に対し、これ以上数が増えて、反乱を起こさないようにと男児殺害の命令をだしたのです。出エジプト記1:22に「ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子はひとり残らずナイル川に放り込め。女の子は皆、生かしておけ。」とあります。幸いモーセは王女に川で拾われ、命をとりとめます。さて、イエス様が生まれた時代の王、ヘロデは極度な人間不信に陥っており、「常に恐怖にさいなまれ、いかなる嫌疑の種にも激昂し、一人の罪人をも見逃すことを恐れる余り、何も罪のない多くの人々を拷問へと引き立てて行った」(佐藤研著『聖書時代史』P.19~20より)とある程です。ヘロデ王はそればかりでなく、家族に対しても常に疑いと殺意を抱いており、(実際に処刑や暗殺が行われていた。)その不安によって自分自身をさらなる孤独に追い込んでしまうほどでした。夢でそのお告げを受けたヨセフは言い知れぬ恐怖を感じたことは言うまでもなく、夜中にもかかわらず、幼子とマリアをつれて、一目散にエジプトを目指します。さらに数年間彼らはエジプトにヘロデ王が死ぬまでそこにとどまります。
2:16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。2:17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。2:18「ラマで声が聞こえた。/激しく嘆き悲しむ声だ。/ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
>>学者たちは神の言葉に従い、ヘロデの企みには与しませんでした。(聖書教育P.113)ヘロデ王にしてみれば、占星術の学者たちに愚弄されたと思ったことでしょう。大いに怒りつつも、恐ろしいほど冷静に、ヘロデ王は学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺させるという残虐な命令を出します。この18節の言葉はエレミヤ書31:15にあります。
ラマとは、ベツレヘム近郊の土地で、その昔、ヤコブがラケルと共にエフラタ(ベツレヘム)に行く途中に、ラケルが命と引き換えに生んだ息子「ベン・オニ」(父ヨセフはこれを「ベニヤミン」と呼んだ)の子孫であるベニヤミン族がすむ土地でした。(創世記35:18)奪われた子供たちの命に人々がどれほど嘆き悲しんだか、いかなる慰めも受け入れることのできないほどの苦しみが痛いほど伝わってきます。
2:19 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、2:20言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」2:21そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。2:22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、2:23ナザレという町に住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
>>ヨセフは一度、イスラエルの地へ帰ってきますが、その途中でヘロデの息子であるアルケラオ王は父ヘロデの残虐性を受け継いでおり、とくにユダヤ、サマリアの住人に対し残忍な政治がおこなわれていることを聞きます。その様子にヨセフは恐れを抱きます。神様はご存知であったのでしょう、ただちに主の天使が遣わされます。彼はガリラヤのナザレに行くように夢でお告げを受けます。ナザレという土地は、ルカ福音書によるとヨセフがかつて住んでいた町でもあります。(ルカ2:4)ヨセフはお告げを受けて、ナザレに向かいます。ナザレの地でイエス様は大工ヨセフの子供として(いわば普通の子供として)すくすくと育っていきます。聖霊によって宿った幼子イエスの事や、東方の占星術の学者たちが贈り物を携えて星に導かれてやってきたこと、ベツレヘムでのヘロデ王による幼児大虐殺、エジプトでの生活など、神の御子であるイエス様にまつわるいろいろな出来事を、ナザレの人々は知りません。また、ヨセフにしてみれば、かつて自分が居を構え、大工として仕事をしていた土地です。気の知れた地元の仲間もいたでしょうし、なにより普通の父親、家族の長として平和に生活できる場所として、ましてや神様から示された地に、安心を覚えたことでしょう。ルカ2:40に、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」とあり、ナザレでイエス様が順調に成長なさったことがうかがえます。また、ルカ2:52で、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」とあります。ヨセフにとって妻マリアとわが子イエスとの安全で穏やかな家庭生活、しかもイエス様の「神と人とに愛される」すばらしい成長ぶりにヨセフはきっと満ち足りた思いと、これまでの主の導きを覚えて主に感謝の祈りをささげていたことでしょう。
皆さんは、どんなことが「しあわせ」と思いますか?「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」日本でもこのような言葉があります。「平穏無事に過ごしたい」「つつがなく暮らしたい」このような表現もよく耳にします。「困難な状況にできるだけあわずに毎日平和に暮らしたい・・」。「物事が順調に行われている状態」それこそが、「主の恵み、主の祝福」と・・思うことはありませんか?逆に、困難や不安の中にいるときは、「どうして私だけが」「どうしてウチが」といった孤独な思いと共に、「神様はどこにいらっしゃるのか・・」・・または、「主は私を顧みてはくださらないのか」・・そのように思うことはありませんか?
このヨセフの人生はどうでしょうか。実に波乱万丈な新婚生活のスタートです。妻マリアとの婚約以来、恐れと不安のなかにありながらも、ヨセフは沢山の人生の重大な選択をいつも主の天使に示されて、また主に導かれて行動していきました。聖霊によって受胎したマリアとの結婚、ヘロデ王からの逃亡、エジプト生活、エルサレムへ帰ると思いきや、さらに北上してガリラヤのナザレへ。そのような波乱の中にありながらも、ヨセフの行動には常に主なる神の導きがありました。妻マリアと幼子のイエス様――かけがえのない家族を守るために、ヨセフをここまで行動させたものは何だったのでしょうか。主は天使によって夢でみ告げをヨセフに与えます。恐れや不安を感じつつも、ヨセフは夢でみたお告げを受け入れて行動します。そこには主にある希望を決してあきらめず、信仰によって主を見つめ続けたヨセフの姿があります。
不安の只中にあるとき、希望が見えなくなりそうなとき・・「しあわせ」が感じられなくなった時・・思い出してみませんか。「インマヌエル(神が我々と共におられる)の主、イエス・キリスト」を。これから新しい年をむかえることになりますが、どうか主が皆様とともにありますように。