山嵜美奈 教会音楽スタッフ
〇前回は士師記11章1~11節を通して、ギレアドの人エフタという人物を見てきました。主を信じ、主に従って生きてきたエフタの続きを見てまいりましょう。
11:29 主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた。
>>この前の箇所、11:12~28節において、エフタは懸命にアンモンの王に使者を送り、無用な戦いをしないよう正当な理由を述べて説得しますが、アンモンの王は耳を貸そうとしませんでした。いよいよアンモン人との戦いの時、戦況は必ずしもエフタ(ギレアド軍)にとって有利ではなかったかもしれません。それでも主の霊が臨んだエフタは、勇者として主が共におられる確信をもって進軍します。
11:30 エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡して下さるなら、11:31わたしがアンモン人との戦いから無事に帰るとき、私の家の戸口からわたしを迎えに出てくる者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」
>>エフタはこの時、どのような心境だったのでしょうか。ここで「者」という漢字を新共同訳では用いていますが、原文をあたってみると、かならずしもそれは人を表わすわけではなく、命をもつ家畜や動物などもその範疇にあったことが分かります。
11:32 こうしてエフタは進んでいき、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。11:33 彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエルの人々に屈服した。
>>エフタは大勝利をおさめます。ここで終わればこの記事は「めでたしめでたし」でしょう。しかし、聖書はここでは終わりません。
11:34 エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓(つつみ)を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。
>>目に入れても痛くないエフタの愛しい一人娘が、誰よりも父親の無事と勝利を祝って戸口から、いの一番に迎えに出てきます。勝利を喜ぶ表現に「鼓(つつみ)を打ち鳴らし、踊りながら」とありますが、出エジプト記15:20節に、イスラエルの民が主によって勝利を得たことを祝い喜ぶ表現として、女たちが小太鼓を手にもって踊る様子が描かれています。なんという素敵な光景でしょうか、たったひとつの誓いさえなければ。
11:35 彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、私の娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取返しがつかない。」
>>エフタは取り返しのつかない過ちをおかしたことに大変な衝撃を受け、激しい悲しみと狼狽をあらわにします。「衣を引き裂く」は、心の底から湧きあがる激情に、我ながらどうすることもできないといった表現です。(マタイ26:65参照)主に誓いを立てた時、このような事態になるとは全く思わなかったことでしょう。かといって、覆すこともできません。民数記30:3に、「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。」とあります。なんと恐ろしい誓いを、彼は立ててしまったのでしょうか。
11:36 彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」
>>エフタという名前の意味は「主は開きたもう」です。「主の御前で口を開く」ことはすなわち誓いを立てるということになります。イエス様は「誓い」について、このように述べています。(マタイ5:33~36参照)「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。そこは神の玉座である。(中略)髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」イエス様はこのエフタの出来事をご存じであったのでしょう。人間の立てる誓いの危うさを、イエス様は丁寧に説かれたのです。
エフタのあまりの苦しむ様子に対し、この娘は「ほかならぬ、主なる神の御前での誓いですから、どうぞその通りに・・」と諭すのです。
11:37 彼女は更に言った。「わたしに、こうさせていただきたいのです。二か月の間、わたしを自由にしてください。わたしは友達と共に出かけて山々をさまよい、わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです。」11:38彼は「行くがよい」と言って、娘を二か月の間去らせた。彼女は友達と共に出かけ、山々で、処女のままであることを泣き悲しんだ。
>>このエフタの一人娘のことばに心を留めたいと思います。彼女は父親の立てた、あさはかな誓願に対し、父親を蔑むことなく受け入れます。アンモン人との戦いでイスラエルの民を救った英雄、その最愛の父が、衣を破るほどに心の底から悲しみに悶え苦しむ姿を、彼女は見るに忍びなかったのかもしれません。また、誰より主を畏れる娘であったこともうかがえます。彼女は家を出ます。二か月の間父親のもとを去り、友達と連れ立って山々をめぐり、成熟した女性になる夢が、はかなく消えてしまうことを嘆き悲しむために。
11:39二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。彼女は男を知ることがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができた。
>>この節で、「ああ神様、なぜこの時にアブラハムがイサクを献げようとしたときのように『まて』をかけてくださらなかったのですか?」と思われる方もあるでしょう。なにが違うのでしょうか。この記事と創世記22章を見比べてみましょう。22章で神はアブラハムに先立って、イサクを献げるよう呼びかけます。アブラハムは悩み、苦しみながらも敢えて主に命じられたとおりに息子イサクを献げようとします。主からの問いかけに応答するアブラハムを主は御心に留め、祝福されます。一方、エフタはどうでしょうか。主からの問いかけはあったでしょうか。そもそも、このエフタの主の御前で口を開いて行った誓いは、エフタの「かなえてほしい願望」とその「自分が支払う対価(条件)」を一方的に言っただけに過ぎないのかもしれません。また一方的な誓いは、ともすると、神を試すことへとつながる危険すらあるのではなでしょうか。主はその誓いに対し、一切言葉を発していません。が、エフタに目覚ましい武勲を与えることにより、エフタの願望は主によってかなえられます。そしてエフタは、自分の提示した交換条件によって、自ら悲劇の人となっていくのです。
11:40来る年も来る年も、年に四日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。
>>イスラエルの娘たちは、エフタではなく、エフタの娘の死を悼んでこのようなことを行います。エフタの血を受け継ぐものはもはやいませんが、イスラエルの娘たちが、このことを記念して語り伝えることになります。イスラエルの民全体を救った華々しいエフタの勝利の裏側に、かけがえのない彼の一人娘の命が犠牲になったことを悼むのです。
エフタのこの箇所を読んで、皆様はどのようにお感じになったでしょう。エフタのようにまっすぐに主に従おうとした英雄の大きなあやまち。聖書は私たちに語りかけます。今、目の前にある願望だけに心を奪われ、主からいただいているすべての恵みに感謝を忘れてしまう私たちはいませんか?主に従って歩んでいるつもりが、いつのまにか、主の御心から遠く離れてしまっている私たち。また主の御心を問うことなしに、自らの考えばかりを「絶対」と押し付けてしまう私たちがありはしないでしょうか。そのような私たちに、イエス様はどのようなまなざしを注いでいらっしゃるでしょうか。ぜひ分かち合ってみましょう。