西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題…「みこころを尋ねて行動する信仰」
◆今回の箇所の背景
カナン地方に到着したアブラムは、シケムの地で彼に現れた神に感謝と畏敬の念を込めて、記念碑的意味合いのある祭壇を築いて礼拝します。しかし、そこが彼に与えられる土地ではないことを知ったアブラムは、次にベテルの東に移動し、そこで自発的に祭壇を築き、主の御名を呼んで御心を問う礼拝をします。しかし、返答のないことを受けて、さらに南下しネゲブ地方へと旅を進めます。ここまでのところ、神に忠実に従おうとするアブラムの姿が描かれています。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ
◆黙想のポイント
前回の箇所とは対照的な今回の内容です。アブラムは旅の感謝や神の御心を問うことを止めてしまいます。どうして、そうなってしまったのでしょうか。また、そのようなアブラムと関わる人々に、どのような災いが降りかかるでしょうか。
◆エジプト滞在
12:10 その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。
>>>「その地方」とは9節に登場した「ネゲブ地方」のことです。地理的には死海の下方部分から西側一帯を指し、ベエルシェバを中心に広がる地域を指します。なぜかアブラムは、ここで主なる神に祭壇を築くことをしません。前回、ベテルの東の地で祭壇を築いても神の応答がなかったからでしょうか。すると、その地方一帯にかなりひどい飢饉が襲います。そのため、彼はエジプトに難を避けようとします。ここにはもはや神の御心を求めて行動するアブラムの姿は見られません。
ここで、視点を変えてこの物語を見つめ直したいと思います。神がアブラムにシケムで現れた時、今後の重要な原則と祝福に関わる約束について語られました。
「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」12章2-3節
ここで神が明確にしているのは、アブラムが祝福の源、つまり基準になるということです。そして、アブラムが旅する先々でこの原則は適用されるということ。また、アブラムが正しい信仰姿勢で行動するかどうかが、その地の民に影響を与えることが示されています。しかも、アブラムはこの先多くの地上の氏族と関係を持つために、旅を続ける必要があることが示唆されています。
この観点からネゲブ地方に起きた非常に厳しい飢饉を見るとき、アブラムがその地に到着した時、神を仰ぎ見ず、その地に祭壇を築かず、その地方の祝福を祈らなかったことが関連している可能性があります。また、この地に彼が留まれないようにする神の御業だったとする見方もあります。
12:11 エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。12:12 エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。12:13 どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」
>>>アブラムは異教の地で知恵を尽くし、なんとか生き延びようとしますが、そこにあるのは神に依り頼む信仰から離れ、自分の力のみを頼るという姿です。この決断がこの後、エジプトの王と人々に災いをもたらすことになっていくのです。神は彼を呪う者を呪うと約束して下さっていたのです。これは神が彼の命を守って下さる約束でもあり、また神が旅の安全の責任を取って下さるという宣言でもあったのです。アブラムには巧妙な嘘をつく必要など最初からなかった、というのがこの物語の前提であり、筋書きではないでしょうか。
12:14 アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。12:15 ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。12:16 アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。12:17 ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。
>>>アブラムが神に信頼せず、嘘をついて妻サライを宮廷に召し入れさせたために、ファラオと宮廷の人々は恐ろしい病気にかかってしまいます。これは神が意図的にそのようにされたと書かれています。原因はファラオたちにではなく、明らかにアブラムの側にあったのです。読者の多くは、この箇所が腑に落ちないかもしれません。エジプトの王たちの側には、このような被害に遭うべきなんの責任も原因もないかのように思える場面だからです。聖書はこの点について説明を省きます。これは後に、出エジプト記において取り上げられていくテーマになります。本当は、彼らはアブラムたちを追い出してはならなかったのではないでしょうか。この時、もう少しアブラムの背後におられる主なる神に目を向けていたならば、歴史は変わっていたことでしょう。
12:18 ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。12:19 なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」12:20 ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。
>>>ファラオはどのようにしてサライがアブラムの妻だと知ったのか、詳しい説明は省かれています。ファラオはこのことでアブラムを殺すこともできたはずです。しかしそうせずに、サライを召し入れる際に彼に贈った数々の品を与えたまま、アブラムたちを急いで立ち去らせます。将来起きる出エジプトの出来事を暗示している箇所です。明らかに神が背後でアブラムを守っていたのが伝わってきます。アブラムはこのことを通して反省する必要があったのですが、果たしてこの先、彼は悔い改めに至るのでしょうか。神の変わることのない約束を信じてカナンに到着したはずのアブラムが、いつの間にか神の祝福の約束を忘れて行動を取るようになっていく姿を、この先も繰り返し見ていくことになります。それでも神は、最初に宣言した祝福の約束を貫き通して行かれます。また、アブラム自身の数々の過ちが招く試練を通して、アブラムが信仰の成長を遂げていき、アブラムと関わった人々も神の御業を体験していくことになります。私たちは往々にして、すぐに結果を求めようとする欠点があります。しかし、神は私たちよりも遙かに優れた忍耐力を発揮しながら、私たちの真の幸福のために約束を貫き通して下さるお方です。信仰が未熟なために、神への服従の仕方が十分に理解できないでいたアブラム。そのために多くの失敗をこの後も続けていきますが、神はそれを承知の上でアブラムを選び、御業を行っていかれます。現代に生きる私たちも、アブラムの子孫として神の計り知れない忍耐と愛と赦しの中にいることに感謝します。
◆話し合いのポイント
・聖書教育誌の「話し合いのポイント」および少年少女科の「活動」などを参考にして下さい。
青年成人科の「話し合いのポイント」や少年少女科の「おはなし」を受けて、なぜサライが無言を貫く存在として語られているのかという問いもいい視点だと思います。是非、チャレンジしましょう。
少年少女科のコラムも考えさせられます。