西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題…「受難、罪人と向き合う主イエス」
黙想のポイント
・聖書教育誌はユダの視点に立って、優れた解釈をしています。是非ご参照下さい。今回ここでは聖書教育誌が言及しているように、51節に登場する若者が福音書記者のマルコだったと仮定した場合の新約聖書におけるマルコの役割の豊かさについて、また主イエスが置かれていた状況と心境に焦点を合わせることにします。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。http://www.bapren.com/index.html
(『聖書教育』ホームページ)
◆裏切られ、逮捕される
14:43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
14:44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
14:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
14:47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。
14:48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。
14:49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
14:50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
◆一人の若者、逃げる
14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、
14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
>>>4福音書の中ではマルコによる福音書(以下、マルコ福音書というようにそれぞれの書簡を表記します)が最初に書かれたと考えられています。そしてマタイとルカがマルコを参考にしながら独自の資料を加えてそれぞれの福音書を書いたと考えられています。そのため、マルコ福音書にだけ登場する話はごく限られています。その中の貴重な一つが今回の51~52節で語られる「一人の若者」のエピソードです。それだけ、この話はマルコ福音書特有の内容ということになります。この短い話が加わることによってどのような効果が出てくるのかご一緒に確認したいと思います。
まず、マルコについて使徒言行録と他のパウロ書簡を参照しましょう。マルコが新約聖書において重要な役割を果たしていた人物だということが分かります。
・使徒言行録12章25節「バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。」
>>>ここではバルナバとサウロと共に行動をとったマルコが語られています。
・使徒言行録15章39節「そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出した…」
>>>ここではバルナバと伝道旅行に同行したことが語られています。
・コロサイ書4章10節「わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。」
>>>ここでは実はマルコはバルナバのいとこだったことが明らかにされています。しかもこの時の手紙では、パウロと一緒にいたことが語られています。
・第二テモテ「ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。」
>>>ここではパウロがマルコを早く呼びたい旨の内容が語られています。また、福音書のもう一人の記者ルカがいます。ここにマルコとルカが接触した事実を見出します。このような機会があったことにより、マルコからルカは福音書を書くための貴重な主イエスに関する情報を得たのかも知れません。
・フィレモン1章24節「わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。」
>>>ここでははっきりと、マルコがルカと一緒にパウロに協力していたことが語られています。
・第一ペトロ5章13節「共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。」
>>>ここではパウロがマルコのことを「わたしの子」と呼び、どれほど彼を可愛がっていたかが伝わってきます。
・使徒言行録12章12節「こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。」
>>>この箇所は、ヘロデ王が十二弟子の一人のヤコブを殺害したことがユダヤ人たちに喜ばれ、次にペトロを処刑するために捕えて牢屋に入れた時の話です。天使がペテロを牢屋から連れ出します。そしてペトロは弟子たちが集まっていた家を訪ねます。そこはマルコの母の家だったとあります。ここで言及されているマルコが福音書記者のマルコだったとすると、マルコの家はイエスが存命中から、エルサレムに来た時に用いられていた可能性が出てきます。最後の晩餐もここで行われたかもしれないのです。マルコの家は弟子たちにとっては、忘れ難い主イエスとの思い出の場所であり、主イエスが彼らの裏切りを承知の上で一人一人の足を洗われた場所です。マルコは母を手伝って食事などの手伝いをしながら、イエスと弟子たちの会話を聞いていた可能性も考えられます。そして、マルコはゲッセマネの園にも秘かについて行った可能性があります。このように考えると、ゲッセマネの園でペトロたちが全員居眠りをしてしまったにも関わらず、主イエスの血の汗したたる真剣な祈りの内容をどうしてマルコが書くことができたのか。その説明がつくのではないでしょうか。
次にこの時の主イエスの心境について考えてみたいと思います。主イエスは今回の直前のゲッセマネの園での祈りの場面で、一番頼りにしていた弟子たちに共に祈ってもらえませんでした。主イエスにとって、一番執り成しの祈りが必要な時に祈ってもらうことができなかったのです。主イエスがこの世において受けた苦しみは、人類の罪を背負う苦しみだけではありませんでした。一番肝心な時にだれからも祈ってもらえないという人生の苦しみを体験されたと言えるのではないでしょうか。それから最愛の弟子に裏切りの接吻を受け、その後も本来ならば一番理解してもらえるはずの祭司長たちから死刑の宣告を受けるという苦しみ。どれも十字架に付けられる前から、主イエスを精神的に打ちのめすのに十分だったのではないかと考えさせられます。
間もなく受難週を迎えます。今回の箇所を通して、主イエスが背負われた苦しみの大きさが伝わってきます。この福音書を書いたマルコは、裸同然で主イエスを見捨てて逃げた一人だったのかもしれません。それでも、彼はその後、目立たないながらも重要な役割を果たすキリストの忠実な僕となっていったことが、新約聖書に語られています。私たちの希望となるのではないでしょうか。
◆話し合いのポイント(聖書教育誌と連動させて…)
・聖書教育誌にある通り、主イエスに接吻した時のユダの心境を想像し、分かち合ってはいかがでしょうか。