西川口キリスト教会 斎藤信一郎
今月の主題…「主イエスの御業を引き出す信仰」
◆前回マルコ4章35~41節から今回までのあらすじ
・前回は、舟で移動中に海上での突風を鎮める主イエスの話でした。今回の箇所はその次の話です。
黙想のポイント
・聖書教育誌の49ページに大事な問いがあります。悪霊たちの集合体であるレギオンが「この人から追い出さないように」ではなく、この地方から追い出さないように」と主イエスに談判しています。その理由を黙想しましょう。何がそれほど悪霊たちに好まれていたのでしょうか。
<常に原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。
http://www.bapren.com/index.html
(『聖書教育』ホームページ)
◆悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす
5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
>>>ゲラサ人の地方とはガリラヤ湖の東側に面した一部の地区を指します。
5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
5:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
5:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
>>>現代で言うならば、明らかな精神疾患を抱えた男性がイエスの元へやって来た場面です。他の聖書箇所に登場する事例と違い、特殊な事例と言えるでしょう。足枷や、鎖で縛っても、鎖を引きちぎり、足枷を砕いてしまうというのは常識を超えています。街中で暴れ狂うわけでもなく、むしろ人里離れた墓場が住みかでした。昼夜問わず叫んでいたと言いますが、それも墓場や山でのことでした。他人には基本暴力を振るわず、自分をひどく傷つけるという自傷行為をしていた人です。ある意味では社会との関係を断つ生き方をしていた人物だったと言えます。しかし、その人物の抱えていた闇と苦しみはいかほどだったでしょうか。尋常ではない苦しみの中に囚われていた男性がイエスと出会って解放されていくのが今回の話となっています。
5:6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
>>>みなさんはこの場面をどう見るでしょうか。もし、本当に悪霊たちがイエスに怯えていたならば、遠くでイエスを発見した時点でどこかへ逃げてしまえば済んだはずです。ところが汚れた霊に取りつかれた人物は走り寄り、ひれ伏してイエスに近づいて来ます。一つのからだに自分の意志と悪霊との熾烈な葛藤を繰り広げている深刻な問題を抱えた人物像が浮かび上がって来ます。
5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
>>>このイエスの問いは誰に向けて語った言葉なのでしょうか。男、それとも悪霊たちだったのでしょうか。いずれにしても、ここで発言権を行使できたのは悪霊たちの方でした。イエスを威嚇するような言葉にも聞こえます。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
>>>聖書は汚れた霊の性格を見事に表現してみせています。その男から追い出さないようにと願うのではなく、その地方から追い出さないようにと懇願したのです。聖書教育誌でも言及しているように、自分たちがこの地方をこよなく愛していることの裏返しの言葉です。それだけ、彼らに住みやすい地方だったということがわかります。聖書は読者にこの理由を考えるように促しています。
5:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
5:12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
5:13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
>>>話は急展開を見せます。汚れた霊たちは男から出て行く代わりに、豚の群れに移動することをイエスに願い出ます。それをイエスは許します。すると豚の群れは湖の中に飛び込んで自滅して行きます。汚れた霊の本質が見事に描かれています。生き物の命や人の人生を破壊し尽くさずにはいられないゆがんだ本質です。豚の大群が死んだ後、悪霊たちはどうなったのか。これも読者の想像に委ねられています。
5:14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
5:15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
5:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
>>>本来ならば、この出来事を通して主イエスと出会って行く絶好の機会でした。しかし彼らはイエスを追い出してしまいます。この人々の反応こそ、数えきれないほど多くの汚れた霊たちを引き付けていた根源だったのではないかと考えさせられます。レギオンをここまで増幅させたのは、その地方に住む人々だったのでは…。
5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
5:20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
>>>イエスによって悪霊のすさまじい束縛から解放された男は一緒に行くことを願い出ます。しかし、イエスはそれをお許しにならず、身内に神の御業を証しするように家に帰します。男はそれに忠実に従って身内に伝えるどころか、ゲラサ地方のさらに広い地域を指すデカポリス地方一帯にイエスがなされたことを証して回りました。この男がいかに主イエスに感謝し、救われた喜びに満たされていたかが垣間見える話です。大勢の人々がイエスと出会いながら、人生の一大転機の機会にすることができなかった一方で、一人の人がキリストに人生を変えられる時、どれほど大きな違いを産むことが可能なのか、その対比が鮮やかに描き出されています。
◆話し合いのポイント(聖書教育誌と連動させて…)
・今回の主人公が一身に抱えていた問題の根源は、イエスによってその地域社会全体の問題になって行きました。人生のある時点までは自分とは無関係だと思っていたことが、ある時を境にして突然身近な問題になった体験などはないでしょうか。その時、どう向き合うことができたか、あるいはできなかったか、考えさせられます。
・主人公のように、何らかの理由で長期入院等、自宅療養、ひきこもりなど、社会との関わりが持てなくなっている人々の苦しみに寄り添うために、私たちにできることはなんでしょうか。これまで教会がして来たこと、あるいは今後もっと必要とされる分野についてなど、考えさせられます。
・今回の箇所から、一つの仮説が立てられます。悪霊たちの影響力は非常に強力なのですが、男を完全に支配するまでには至っていません。悪霊たちが主導権を握ることができるのは手と口のようです。これに対し、男は足を制することができるという場面設定です。男は、本当は家に戻りたいのです。しかし、人を傷つける言動を口にしてしまいます。暴力も振るってしまいます。それを避けたいので生活圏から離れた墓場や山に引きこもっていたとしたらどうでしょうか。悪霊たちは仕方なく、本人の手を用いて自傷行為をさせ、口を使って様々な汚い言葉を叫ばせていたとしたら…。ゲラサの人々はその男の苦しみに寄り添うことができず、むしろ足枷や鎖を強制的に施してさらに苦痛を与えてしまいます。私たちの日常にもこのような現実はないか考えさせられます。聖書教育誌の50pの「話し合いのポイント 必要悪」の箇所と合わせて考えてみてはいかがでしょうか。