西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
今月の主題…「主イエスの御業を引き出す信仰」
◆前回マルコによる福音書7章31~37節から今回までのあらすじ
・主イエスは現在のシリアの地中海沿岸を経由して、ガリラヤ湖の東南に広がるデカポリス地方へと広範囲に弟子たちと旅をし、それからガリラヤ湖畔に戻り、耳が聞こえず、舌が回らない人を癒します。大勢の外国人が、主イエスのその御業を言い広めた話が前回の箇所でした。その後も主イエスと弟子たちの宣教の旅が続きます。特筆すべきは、続く8章、9章で受難予告をし、10章の今回の話の直後にも、第三回目の受難予告の話が続くことです。主イエスは十字架を見据え、残り時間が少ないことを意識しながら宣教活動を行っていたのです。
黙想のポイント
・受難が近付きつつあるという緊迫感の中で、主イエスが語る永遠の命についての理解と、当時のユダヤ人たちが理解していた永遠の命の違いを黙想しましょう。主イエスの話が途中で「永遠の命」から「神の国」に変わる理由についても黙想しましょう。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
◆金持ちの男
10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
>>>またもや旅に出ようとする主イエスの姿が最初に描かれています。残り少ない時間を最大限、福音宣教のために用いたいとの思いだったのでしょうか。そこへ主イエスに走り寄って、ひざまずく金持ちの人が登場します。マタイによる福音書19章では金持ちの青年として、ルカによる福音書18章では金持ちの議員として登場します。当時の人々の永遠の命についての考え方が伺える質問です。永遠の命というものは「何をすれば」つまり普段からの努力によって獲得して行くものだという理解があったことを伺わせます。
10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
>>>主イエスは質問に答える前に別の問題に触れます。それはイエスのことを「先生」と呼ぶならまだしも、「善い」という言葉を付け足したからです。主イエスはすでにこの時点で、この人物には聖書の真理を理解していく上で正さなければならない課題があることを見抜いているようです。それが何なのかは読者に委ねられます。今回の聖書教育誌の「おはなし」も参考になります。
10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
>>>主イエスは男の質問にだれもが知っている十戒を引き合いに出して応答します。申命記5章は十戒から始まりますが、最後の29節と32~33節の理解が根底にあったと考えられます。それに対して、彼は自信を持って聖書の教えは守って来たと主張しますが、主イエスが何故十戒を引き合いに出したのかを後で参照することにします。
10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
>>>この時の主イエスのまなざしを想像して見ましょう…。どれほど慈愛に富んだまなざしだったことでしょう。このイエスの返事の一番の強調点はどこにあると思われるでしょうか。この人物に欠けている非常に重要な「一つのもの」があるとイエスは言うのですが、それは何でしょうか。「持っている物を売り払う」こと、「財産を貧しい人々に施す」こと、「天に宝を積む」ことでもなく、「わたしに従いなさい」という招きの言葉だったと考えられます。
しかしながら、この男性は主イエスの提案を受け入れることが出来ませんでした。お金あっての幸せという理解は現代でも多くの人が持っている価値観なのかも知れません。少なくとも、自分の財産の一部ではなく、全部を手放すことはあまりにもハードルが高かったと言えます…。私たちも躊躇するのではないでしょうか。また、この男性は彼自身も求めていたはずの聖書が預言していた救い主を目の前にし、弟子として従う招きまで受けていながら、それを実行することができませんでした。その障害となっているものを取り除くために、主イエスは財産と個人の幸せの追求に偏っていた彼の視点を、貧しい者たちにもっと向けるようにと助言したものと考えられます。これほど聖書の戒めに忠実に生きている人でも、いざとなると主イエスと向き合うことができない状況は、私たちの現実を映し出しているのかもしれません。何が問題だったのかと聖書は私たちに考えさせます。
10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
>>>主イエスの視線は、今度は弟子たちひとりひとりに向けられて行きます。そのまなざしは「それでは、あなたはどうか」、と問いかけるように…。考えさせられます。
また、ここで注目したいことがあります。これまでの話題は「永遠の命を得るには」ということでした。しかし、主イエスは話題を「神の国に入るには…」に変えています。ここで先ほど紹介した申命記5章29節と32~33節を参照して見ましょう。モーセに主なる神が語る場面から始まります。
(神)「どうか、彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、彼らも、子孫もとこしえに幸いを得るように。…(モーセ)あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる。」
この箇所をどう理解するかが重要です。神はイスラエルの民に生涯神を畏れ、神の戒めをことごとく守る「心」を持ち続けてほしいと願っていることが語られています。そして最後にその理由が語られます。彼らも子孫も「幸いを得る」ためだと語っているのです。それは遠い将来の話ではなく、「現在の人生」が幸いであるためのこととして語っている点に注目しましょう。モーセの言葉もやはり現在から始まる豊かな命と幸いについて語っているのではないでしょうか。すると、主イエスが彼に気付いて欲しかったのは、十戒そのものを実行することの大切さよりも、十戒を守ることを通して、神がイスラエルの民に与えたかった人生の祝福の方にあったと考えられます。また「将来の神からのご褒美としての永遠の命」ではなく、今現在でもその男が主イエスを通して生きることが許される神の国の祝福にもっと心を向けることの大切さに気付いて欲しかったのではないでしょうか。彼はいつの間にか自分の将来の幸せに目を奪われていたために、神の国と永遠の命の両方を手に入れるための目の前の主イエスの招きに応えることができなかったのです。
後のらくだと針の穴のたとえの結論とは「人間の努力では神の国に入ることも、永遠の命を得ることもできない」ということになります。このように主イエスが語ったので群衆も戸惑いを隠せなかったようです。彼らもおおよそ青年と同じように理解していたと考えられるからです。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
>>>金持ちの青年はおろか、だれも自分の努力では手に入れることのできない永遠の命と神の国に生きる幸い。それを勝ち取るために十字架に向かおうとしておられた主イエスでした。それだけに「人間にはできることではないが、神にはできる。」という言葉に力がこもっていたことでしょう。私たちに忍耐強く向き合って下さる主イエスに感謝しましょう。そして、「わたしに従いなさい」と呼びかけて下さっている主イエスに従うものでありたいと願わされます。
◆話し合いのポイント(聖書教育誌と連動させて…)
・私たちにも主イエスと向き合うことを妨げたり、隣人と向き合うことを妨げているものはないか考えさせられます。主イエスと向き合うためにもっと意識した方がいい自分の欠け、あるいは手放した方がいい自分が執着しすぎる課題はなんでしょうか。